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第2話【すれ違い】

 緩やかな夜の寒さが街を静かに覆い始める時刻。
街はいつものように活気づき始める。 ある者は悲しみや苦しみを癒すために、
また、ある者は寂しさを紛らわせるために、街の騒音に融け込もうとしていた。
原色のネオンの中に彩られた街。
 ここはその光にしか照らされることのない人々の集う街。
 振り返る過去を忘れようとする街。
 その原色の街を男と女が滑るように歩いていた。
 この街でなくても、どこにでもいる普通の二人だった。
 そのはずだった。
 男というには表情に幼さを残した若者。
褐色の肌に銀の髪を持つ美しい女。
躍動美あふれる褐色の肌と、静寂の化身であるかのような微笑み。
 確かに不釣り合いな二人ではあったが、それ自体そう珍しいことではなかった。 
それでも原色に彩られた街の住人達が振り返ったのは、既視感に見舞われたからなのかもしれない。
若者の持つ静けさが、この街の住人に、いや、この街に初夏の日の光景を思い出させた。
哀しすぎる夜の光景を…
その光景を振り払うかのように、住人達はいつもの生活に戻っていった。
ここは過去を忘れる街。
 寂しい魔王の住む街。

若者はいつものように、萎びたカウンターバーの扉を開けた。
 ちらりとこちらに目をやるマスターに目で挨拶をしてから、
空の席に誰かを視るような素振りを見せ、その隣に席をとった。
優雅な物腰で腰をおろす若者のとなりには、まだ店に慣れていない様子で、褐色の肌が腰をかけた。
初老のマスターは若者の前に緑のカクテルを置きながら、褐色の肌に尋ねた。「お嬢さんは何にするかね」
緑の光に目を落とす若者の視線を追いながら、女は常に似合わず落ちつかぬ様子で返した。
「同じのでいいわ。」
言われてカクテルを作りながら、マスターは意地悪そうな口調でいった。
「どうした、“レディ・タイガー”らしくないじゃないか」
普通の世界に住む者が知るはずのない通り名で呼ばれた褐色の肌は、驚いたように若者の顔に視線を移した。
その驚いた様子に、微笑みながら若者は答えた。
「マスターはね、元々は僕たちと同じ世界にいたんだ。きみも聞いたことがあると思うよ。
『千の目を持つ…‥』、くそじじいの名前は、」
「誰がくそじじいじゃ、誰が」
 威厳のかけらもない初老の老人を視る、女の目に畏敬の念が浮かび始めた。 
「この人が、あの?」
 千の目の賢者…その名はこの世界に生きる者にとっては尊敬の対象であった。
人々が、とてつもない化け物を作り出した時代があった。
 人間をも支配した化け物。
人の手で作り出されたはずのそれは、人間の能力を遥かに越え、全てを支配した。
そんな化け物を闇に葬った者達の一人が『千の目の賢者』なのである。
 まさかこんなところでその救世の英雄に出会えるとは思わなかった褐色の肌は一瞬言葉を失った。
 そんな女に、カクテルを差し出しながら、今度は年相応の落ちつきを持って声をかけた。
「おまえさんがどんな風におもとるのかしらんが、わしは生き残った、ただそれだけじゃよ。」
老人の声には生き残った者の後ろめたさのようなものが感じられた。
その辛さがわからない者はここにはいなかった。
 ここは深い傷を持った者が入る街
 彼らの心には寂しい魔王が住んでいる。
 人それぞれの魔王が…
 褐色の肌は、その魔王の声を断ち切るように若者に違うことを尋ねた。
 その指は緑のグラスを弄んでいた。
「前から聞こうと思ってたんだけど…、どうしていつもこれを飲むの?」
 若者は褐色の何気ない問いかけに、今にも壊れそうなほど透き通った微笑みを浮かべた。
 いつ置かれたのか、誰もいないカウンターに三つめの緑の透明が光を発していた。
そのグラスに目を落としながら、微笑みの主は答えた。
「ずっと昔に、おいしいって言った気位の高い娘がいた…、それだけですよ。」
硝子の微笑の向こうに、寂しい優しさが浮かんだ。
 柔らかな髪が二人の間を吹きすぎた。
 その優しさに戸惑いを感じながら、女は静かに想いを口にした。
「どんな風だったの?。」
 緩やかに綴られた言葉は、星霜の虚に融け込むように流されていった。
 ともすれば、その虚に融け込むような若者の瞳を見つめたとき、褐色の肌に少し寂さが浮かんでは消えた。
 そんな心を流すような微笑みを浮かべながらながら若者はグラスをあけた。
そして、緩やかな動作でグラスをテーブルに置くと、静かに褐色の肌に目を移した。
「さあ、ね。形になるものは何一つなかったから…。」
 その言葉に、褐色の心には、若者の過去の言葉が甦った。

 決して自然の祝福を受けられぬ命。
 それが故に紡ぎ出せない本当の想い。
取り戻せぬ運命。       
                 」
 そう語った若者の寂しさが、女にはようやくわかったような気がした。
 多くの悲しみを越えた褐色の心にさえも、その寂しさは寂しかった。
 言葉を紡ぎ出せない女に、若者は静かに続けた。 
「舞台の幕は、もう降りてしまった。それだけは確かだけど…。」
 それは悲しみの時を越えて、はじめて若者の唇が綴った、あの娘だった。
 何気なく綴られた言葉に、どれだけの想いが込められているのか、褐色の肌には痛いほどよくわかった。
柔らかな黒髪を心に刻む若者は、想いをこらえる褐色を背中に静かに席を立った。
 褐色の肌にはかける言葉が見つからなかった。
誰もいないふたつの席に、永遠に近い刹那が通りすぎた頃、女はあけられることのないグラスに向かって呟いた。
「どこに…?」
 応えることのない緑の光が静かにテーブルに流れた。
寂しい緑だった…。




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