第1話【誕生】

 街が静かな暗闇に沈んでいた。
 朝の静けさと真夜中の静けさを合わせ持つ時間。
 夕暮れが夜に変わる時間を朝と呼ぶのなら、この静寂はなんと呼べばいいのか。
そんなわずかな光が全ての風景を凍り付かせてしまったかのような静寂。
 その静寂を上回る静寂が動いた。
 光さえも凍てついたような光景の中、その光さえも透さぬ若者の影であった。
 若者の顔には寂しさよりも寂しい微笑みが浮かんでいた。
 その傍らには黄金に輝く豺がいた。
 運命の時を越えた天使が本当の大地を踏みしめた。

 最後の仕事を終えてから数週間、若者は怠惰な時間を過ごしていた。
 夕暮れのなかいつものようにグラスを傾ける若者の傍らに黄金毛の豺が歩み寄ってきた。
「手紙がきとるぞ。」
 傍らに座り込みながら豺がくわえた手紙を差し出した。
「酔っぱらいの不良中年からのようですね。」
 受け取った手紙を読みながら若者は苦笑した。
 若者を苦笑させた手紙の内容は次の通り。
「こら、餓鬼、いつまでさぼりをかましているつもりだ。俺のように少しは人様の役に立って見ろ。
と、言う事で親切な俺が仕事を回してやる。心して取り組むように。若くて親切な青年より」
 同封のされた依頼内容とは、彼らの仕事のなかでも異質なものだった。
 詳細はわからないが依頼主の令嬢が電界に入ったまま戻らないのだと言う。
 その子を救出して欲しいのだと・・・。
「あやつらしい言い方じゃな。で、どうする?請けるのか?」
「そうですね・・・」
 あくまで透明で澄んだ笑顔で、ただそれだけを口にした。
 その笑顔になにかを感じて目を伏せながら豺は言った。
「じゃが、この仕事はかなりめんどうじゃぞ。何のためにアクセスしたのか、どこでサポートマシンを手にいれたのか。わからん事が多すぎる。」
 そんな豺の黄金毛に触れながら若者は呟いた。
「いちばんの問題は、何故ダイバーでもない女の子が電界に入り込めたのか、ですよ。とにかくいってみましょう。」




 夕暮れの少し前、若者は依頼主の家にたどりついた。
「部屋には誰もいれないで下さい。」
それだけを言い含めて若者は少女の部屋に足を踏みいれた。
「さて、どうする。手がかりが少なすぎるぞ。」
 傍らにつき従う豺の問いかけに若者は
悠然と答えた。
「悠長に手がかりを捜している暇はなさそうですね。」
 怪訝そうな相棒をよそに、若者はさらに言葉を進めた。
「それに、ダイバーでもない少女が電界に精神を滑り込ませてそう長い間持つとは思えません。あまり時間を掛けると肉体に影響が出るかも知れませんしね。」
 若者は流れる風のように少女の傍らに歩み寄った。
「ばかな!同じ端末から潜る気か?並列処理型の端末ならともかく、この端末では自殺行為だ。処理能力を超えてしまうぞ!」
 荒ぶる相棒とは対照的に若者は静かにしかし、確かな意志を持って応じた。
「できる、できないの問題ではないでしょう。今、僕がここにいる。だからやるんです。まあ、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。多分大きなネットワークに接続っているだろうから、この端末にかかっている負担は軽いはずです。」
 硝子のような手が、少女の傍らにそっとなにかを置いた。
 幸せそうに笑う少女らの写真だった。

 霧が晴れた小さな端末の世界には、若者が予測した通りに何一つ変化はなかっく、誰かが潜んでいる気配もなかった。
「どうやらこの端末は使われていないようだな。あのお嬢さんはどこに行ったんじゃろう。」
 あたりを見回しながら言う豺の額にしなやかな指を当ててから若者は静かに歩きだした。
「どうやら、事態は僕が思っていたよりも進んでいるらしいですね。急いだ方がいい。この先にはつい最近閉鎖されたネットがあるはずです。」
 不自然にこじんまりとした空間を閉じている壁に若者は影を寄せた。
 壁に寄り添った影の脇に立ちながら、豺は物騒な意見を吐いた。
「どうやら端末がつながっていないと思わせたいらしいが・・・。こんなものでごまかせると思っているのかな。どうする?ぶち壊すか。」
 四肢に力を込める相棒を静かな指が軽く制した。
「中の空間に影響を与えたくありません。すり抜けましょう。」
 そう言いながら、若者は雪のような指を壁に溶け込ませていった。
「まったく面倒臭いことをしよる。」
 黄金毛を揺らしながら相棒の後に続いた。

 壁をすり抜けた彼らを待ち受けていたのは密林であった。
 樹々の影よりもさらに深い影を落とし込みながら若者はゆっくりと歩きだした。
 その影に付き従う豺が動こうとしたとき、彼らを突然の変化が襲った。
樹々の隙間から流星のような光が流れ込んできたのだ。
目映いばかりの光にさえ、くっきりと浮かぶ影を従えながる若者に向かって豺は平然と口を開いた。
「たいした危害はないようじゃが、言ったいなんのつもりじゃ?」
 黄金毛前を悠然と歩く黒衣の若者が静かに応えた。
「おそらく僕らが来た事を知らせるためのものでしょう。とにかく急ぎましょう。」
 おそらく中心部であろう方向に流れるような若者の後を追いながら豺が面倒臭そうに言った。
「しかし、害がないとは言え少々邪魔じゃな。消してしまうか?」
 過激な相棒に振り向きもせずに静かに呟いた。
「その暇はないようですね。ほら」
 硝子のようなしなやかな指が指し示した茂みの中から1頭の虎と、褐色の肌の女が現われた。
「まさか貴方達がくるなんて・・・、ちょっとびっくりしたわね。」
褐色の女のしなやかさは若者よりも年上の雰囲気を漂わせていた。
「なるほど、「導師」たるお前さんならば、素人を導く事も可能だな。」
噛みつくような豺には応えずに褐色の女は若者を見つめて言った。
「坊やは引退したって聞いたわ。」
 女の静かな微笑みよりもさらに穏やかな表情で若者は応えた。
「ここにしか居場所がないですからね。それよりも女の子はどうしました。」
 悪戯っぽい笑顔を、見せる褐色の肌が若者を誘った。
「それは、私の呪縛を逃れてから教えてあげるわ。」
 突然、密林の樹々が侵入者めがけて襲いかかった。
 黄金の豺は突進してくる樹々を軽くかわした。
 若者はしなやかに避けながら、花を手折るような動作で掌から次々と結晶を紬だした。
 その雪が枝に触れた刹那、その枝先は結晶となって砕け散った。
 その光景を見てほくそ笑む豺を驚愕が襲った。
 砕け散った枝先から新たな枝が生まれたのである。
 若者が指先から繰り出す氷の幻影をあざ笑うかのように次々と枝をのばし樹々が襲いかかる。
 そしてついに若者の攻撃を樹々の再生力が上回った。
 かわそうとする若者を取り囲み、見る間にその身体を包み込んだ。
「その呪縛は貴方の氷の幻影では打ち破れないわ。炎の幻影を使えない貴方は、終わりね。」
悠然と微笑む密林の肌を睨む黄金の豺の目に哀れみの影が降りた。
「あの頃のあいつではないぞ。」
 その言葉に応えるように、若者を覆い隠す樹々が一瞬にして紅の炎に姿を変えた。
 女の顔にわずかに驚愕が走った。
「貴方が炎の幻影を?あの頃はそれを極度に嫌っていたのに・・・」
女が語り掛けた炎の中から悠然と歩出す影が静かに答えをかえした。
「いろいろありましたからね・・・」
 あまりに静かな声に女は始まったばかりの戦いを忘れたように立ち尽くした。 それを知ってかしらずか若者はさらに静かに言葉を綴った。
「僕の事よりも貴方はどうなんです?実戦を退いて協会の教官として新たなダイバーを育てる「導師」になったはずじゃなかったんですか?」
 わずかな感情もこもらない言葉が流れ去った後、幻影さえも凍り付くような静寂が辺りに漂った。
 その静寂を破って、褐色の心の悲痛な叫びが響きわたった。
「忘れられなかったのよ!あの事も、それから・・・貴方も!」
最後の言葉を遮って女の放った幻影が若者を襲った。
再び襲い来る幻影を炎の龍が焼き付くした。
「くっ!これならどう?」
 炎と化した樹々の間から多くの獣が襲いかかった。
 黄金の輝きを放つ豺の元には、白金の輝きを放つ虎が襲いかかった。
二つの輝きが交差する。
 互いの一撃をかわしながらも、互いに新たな一撃を繰り出す事が出来ずに身構えた。
 その輝きを見守る若者には、暗闇を凝縮したかのような恐怖が襲いかかった。
黒豹である。
襲い来る黒豹に若者は成す術もなく立ち尽くしているように見えた。
幻影であるはずの黒豹が、勝利を核心しながら必殺の一撃を繰り出した。
 黒い光が若者に重なった、その刹那、さらなる闇色がその一撃を飲み込んだ。
「どうも嫌な予感がします。一気に突破しますよ。」
 黒い豹をその闇色に溶け込ませながら、若者は一振りの剣を天空から掴み出した。
 彼らの行く手を遮る樹々を一気に切り裂いて、力の奔流が集まる地点へ向かって駆け出した。
「待って!」
 叫ぶ褐色の肌を振り切って走る若者が辿り付いたのは広がる草原であった。
 肌を伝わるしっとりとした風に若者は懐かしさを覚えていた。
 かろうじて白金の虎を振り切って追いついた相棒も、同じ想いを抱いて呟いた。
「これは・・・。まさか・・・あのときと同じ・・・?」
 凍り付いてしまったかのようにも見える黒衣の影にはあらゆる反応が欠如していた。
 長く延びた影に褐色の肌がすがりつくように叫んだ。
「お願い!もう少し待って!全てが終わったらどんな償いでもするから。」
 悲鳴に近い声に感情を押し殺した声で若者は告げた。
「僕は間に合わなかったようですね。」
 若者が見つめる先には小さな小屋があった。
 まるで、童話に出てくるような可憐な感じのする建物だった。
 その小さな戸がそれに似合いの小さな音をたてて開け放たれた。
 そこから現われた人影は、彼らが求めた少女のものだった。
「お母様が貴方達を呼んだのですね。」
 少女の姿は彼らがみたものよりも幾分おとなびて見えた。
 その少女の腕の中に小さな赤ん坊の寝息があった。
「彼女達の想いが生んだ、彼女達の電脳界の子供よ。」
 褐色の女は優しさのこもった瞳で言葉を綴った。
「そして、この子の父親は・・・・」
 続けようとする女の言葉を遮るように若者が口を開いた。
「Flying Dutchman・・・。肉体を失い、この世界に呪縛された魂。」
 驚くように褐色の女と少女が若者の凍てつくような瞳を見つめた。
「何故、貴方がそのことを・・・?」
 揺れる瞳で問いかける褐色の肌を不安がよぎった。
 少女の夫にして、赤子の父の姿が見えないのである。
「彼は・・・彼はどうしたの?」
 優しさのこもった不安を口にした女に答えたのは少女ではなく黒衣の主たる若者であった。
「消えた・・・。その子に己が魂の全てを与えて・・・。」
凍り付くような口調で、過ぎ去りし日々を語るかのように・・・。
 驚きを映した褐色の優しさは少女に問いかけるような瞳を向けた。
 少女はただうつむいて幼子を抱きしめるだけだった。
「あなた・・・いったい・・・?」
その問いかけにすら答えずに氷の象徴たる若者にそぐわないほどの激しい口調で呟いた。
「・・・人は・・・同じ過ちを繰り返すのか・・・」
 いつになく激しい若者の心に気押されたかのようにあたりは静まり返った。
「命を奪い生まれた命。肉体を持たぬ魂。」
強い感情に打ち震える若者の言葉に褐色の肌は気力を絞って言葉を返した。
「肉体は作れるわ、理論的にも技術的にも可能なはずよ。」
 女がようやく紡ぎだした言葉に答える気もなく若者は続けた。
「決して自然の祝福を受けられぬ命。
 たとえ肉体を得ても、それは借り物でしかない。
 それが故に紡ぎ出せない本当の想い。 取り戻せぬ運命。
己が命を蔑みながら生きる日々。」
 叩き付けるような若者の言葉に肌を震わせながら言葉を綴った。
「で、でも、何も知らせずに育てればいいじゃない。」
 その言葉に、幼さの残る表情を歪めながら若者は静かに語った。
「その子は全てを知っている。今はまだ考えることはできないだろうが、生まれたその瞬間から全てのことを感じているのだから・・・。」
「何でそんなことわかるのさ!」
 噛みつくような褐色の肌を少女が制した。
 それまで黙っていた母たる少女が静かに口を開いたのだ。
 その言葉は神の裁きのような響きを持っていた。
「この子と同じなんですね、あなたも・・・」
 張りつめた空気の中を少女の言葉が吹きすぎた。
 言葉の余韻が届いた頃、褐色の肌は氷像のような若者を見つめた。
「・・・うそ・・・」
 一人の女に戻った褐色の肌の言葉に若者は静かに微笑むだけだった。
それは哀しさよりも哀しい微笑みだった。


 柔らかな夕闇が現実の世界を包む頃、全てを終えた幼すぎる表情と悲しい強さを宿した女は小さな酒場で杯を重ねていた。
 言葉もなく吹きすぎていく時間。
 褐色の肌はまるで一人でいるかのような錯覚に襲われた。
 若者の寂しさは、幾つもの哀しみを超えてきた女にとっても寂しすぎた。
 その寂しさに飲み込まれるのを恐れるかのように真紅の唇が動いた。
「あの子達のことはあれでいいの?」
 静かに見つめる女の青い瞳を見ずに、ただグラスの中の緑の液体に目を落としながらゆっくりと答えた。
「僕の仕事はあの少女を電脳界から救い出すこと、それ以外の事は関係がないですよ。」
 なにものおも映さぬ漆黒の瞳の奥に穏やかな光が宿っている事に褐色の肌は喜びを感じた。
 その心を隠そうとする幼さに母のように微笑みながら若者のグラスを持つ白い手に美しい褐色の手を静かに重ねた。
「あなたがあの子供を可愛いと想うのは自然なもの。それはあなたの心が自然なのだと言う証。隠すことはないわ。」
 若者は優しすぎる言葉を身動きもせずに受け入れた。
 その姿は変わらず美しかった。
 しかし、もう寂しくはなかった。
 その変化に頬をほころばせる女に若者は照れたように微笑んだ。
 その微笑みが褐色の肌をすこし悲しくさせた。
 紅い唇が、心の奥の悲しさを振り払って優しく囁いた。
「私、恋人にはなれなかったけど、お母さんにならなれそうね。」
 二人の間を柔らかな時間が流れた。
 いつかの二人とは違ういつもの二人を感じながら、いつまでもグラスを傾けた。
 寂しい魔王の住む街で・・・。





<魔王の住む街・第2部・第1話【誕生】終わり>
・第2話【すれ違い】へ続く