春よこい

やまもと雄大

 この季節になると「春よこい」という童謡を思い出す。小生がかわいい幼少の頃にこの歌を聞いて、僕の気持ちを歌ってくれているような歌だと思ったのを覚えている。今になってあの頃の自分の気持ちを推し測れば、きっと僕もじょじょをはいて歩きたかったのだろう。今はじょじょの代わりに電動車椅子でおんもへ出られるので、あの頃できなかったわるさをやっちゃおうかな。「みいちゃん」のところを「こうちゃん」とかえて歌うのだ。(^o^)
  寒い時期は冬籠りと称して穴熊戦法で冬将軍に防戦して遣り過しているのだが、そろそろ飛ばし屋の血が騒ぎ出してきたようである。飛ばし屋と言っても暴走族ではない。小生の趣味のひとつが電動車椅子でツーリングに出掛けることなのだ。科学技術は時として危険を伴なうものだが、それは私達の社会構造が熟成されていないためだと思う。小生に電動車椅子という素晴らしい贈り物を届けてくれたのは科学文明だった。健やかな者も病める者も障害を持つ者も目立った障害を持っていない者も富める者も貧しい者も、それぞれの経験と知識と喜びと悲しみを出し合って、科学・芸術・文化とあらゆる文明がバランスよく調和する成熟した社会システムを構築して行ければどんなにすてきなことだろう。チャレンジドの責任と役割は重要になってくることを自身が早く気付かなければならない。未来は来世紀の人間が創るのではなく、今この瞬間に泣き、今この瞬間に歓喜し、今この瞬間に生きる我々が築くものなのである。今の福祉は「至れり尽せりにしていればいい」、やってもらうのが当たり前というのが現状だと言う意見も聞くが、もう少し突っ込んで言えば至れり尽せりの場合とそうではない場合の落差が大きく、地方へ行くほどこの落差を感じるようになる。今までの福祉の考え方はどちらかと言うと「保護をしていけばいい」の方向に流れていたように思うが、これからは社会と皆がどう関わるか、何ができ、どんな役割を持たせるか、また持つことができるかという観点から福祉を見直すべきだろう。権利ばかりを主張せず、みんなと同じように責任も果たすためのバリアフリーなのだ。奈良県は「人にやさしく誰もが住みよい町」という面ではたいへん遅れているのが現状だと思う。住民一人一人が努力することで変えられると信じて小さなことであってもこつこつやっていきたい。
  話しは横道に逸れたようだが、いつも小生のツーリングは横道へ逸れる。脇路を行けば新たな発見があり、新たな道が開ける。
ここらで小生のツールングコースを紹介しよう。我が庵を出て、まず「やすらぎの道」と称すその名に相応しいとは言い難い自動車の騒音が騒がしい道を駅の方向へと真っ直ぐ走る。途中に奈良女子大学がある。キャンパスには何故か鹿がいる。しかも、ある一族だけが住みつきキャンパスライフを楽しんでいるらしい。羨ましい・・・鹿を羨んでどうするのだ。さて、取り敢えず奈良公園に向かうとするか。近鉄奈良駅ビルの横を通るとビル風の吹き下ろしが強烈な日もあるので、ビルの中を通り抜けすることもある。自動ドアが設置してあるので大丈夫だ。買い物をするなら東向商店街や三条通りが便利だろう。三条通りは奈良で一番にぎわうストリートというからおもしろい。いかに田舎であるかがわかる。たしかに歩いている人は多いし、店も並んでいるのだが、夕方になると早々に店仕舞いしてしまうので、このままでいくと多くの商店街がそうであったように寂れ衰退の一途をだどることにならないかと懸念を抱く。
  商店街は帰り道に立ち寄るとして、まずは興福寺に参拝することにしよう。興福寺は法相宗の大本山で南都七大寺のひとつである。東金堂・南円堂・北円堂・三重塔・五重塔などがあり、貴重な文化財多数を存する。中でも美しいのが小生お気に入りの五重塔である。巧みに組み合わされた木組みが実に美しい造形芸術を生み出している。木の心を知り尽くした先人たちの技は現代人とは比べようがないほど遥かに秀でたものである。その技を生み出してきたのはどんな手だったのだろう。以外と武骨な手であったのかもしれない。今の人は武骨だが温かく優しい手をしているだろうか。
  興福寺の次は土産物屋を見ながら大仏殿前の通りを行く。重厚な門が建っていて、両側には圧倒的な迫力で魔界の怪物たちを制圧する阿吽の仁王様が立っている。この仁王様に睨まれると私たちの中に住みついている怪物も逃げ出してくれるかもしれない。残念ながら階段があるので電動車椅子でこの門を潜ることは非常にコ困難である。だから小生は門の横を通る。大仏殿も一般の入り口には階段があって、重さが100キロ以上もある電動車椅子を担いでもらうとなると大変だし、車椅子が壊れてしまうこともある。そこで一年に一回の万燈供養が行われるときだけでも横の門を開けてくだされば関係者の自動車も置いてあるぐらいだから車椅子でもそのまま入れるのだが、開けて入れてくださいとお願いすると東大寺側は嫌な顔をされる。何だ彼だ文句言われてやっと入れたが二度と入ろうとは思わなくなった。大仏様御自身はきっと嘆いておられることだろう。寺は人の苦しみを少しでも和らげ安らかな気持ちにさせる大事な役目がある筈だ。同時に昔は最先端の場所でもあったと思う。然るに現代の状況はつまらん大仏商法に貢献しているだけにすぎない。これで世界遺産だと胸を張って外国の人たちに言えるのだろうか。バリアフリーにする方法は幾らでもある。外回りは徐々にバリアフリー化の傾向も少しは見られるものの、肝心なところがバリアフリー化になっていないのが二〇〇二年春現在の実情なのだ。それでも小生は御顔の見えない大仏様に家内安全を祈るのだ。(この文章を書いた後、秋のけはいが日に日に色濃くなるころ、やっと大仏殿裏側にスロープが完成した。十月五日のことである)
  最近こんなおもしろい話しを聞いた。大仏様が造られた時は面長だったというのである。重要な文化財をデジタルデータとして保存する研究をしているグループがコンピューター・グラフィックス(CG)を使って一二五〇年前に開眼した当時の東大寺の大仏と大仏殿の姿を復元したそうだ。開眼の約百年後に地震で頭が落ちた事件は有名なので御存知の方も多いと思うが、その他にも一一八〇年には源氏と平氏の戦いで大仏殿が全焼したり、戦国時代の一五六七年にも大仏殿が焼き打ちされ、大仏もその度に修理されて姿を変えてきた。現在の頭部は戦国時代の火災で失われたのを江戸時代の一六九一年に補修し完成したものだが、東大寺に伝わる文献には奈良時代当初の大仏の顔や目、鼻、口などの大きさが記録されている。この数値を基にして大仏のCGモデルに手を加え、創建当時の大仏の顔を復元したら出来上がったのは現在よりほっそりした「うりざね顔」だったという。ちょっとおもしろい話しでしょ。大仏様も長い間座りっぱなしで運動不足になられて中年太りかな。我々の心も丸く膨よかになれたら良いのだが。
  因みに大仏様の身体測定をしたとすると、高さ14.98メートル、顔の長さ5.33メートル、目の長さ1.02メートル、鼻の高さ0.50メートル、耳の長さ2.54メートル、台座の高さ3.05メートル。重さは台座を含めると推定約380トンになるようだ。芸能人ではないが大仏さんの本名は盧舎那仏(るしゃなぶつ)(毘盧遮那仏=びるしゃなぶつ)と言う。宇宙をあまねく照らし出す仏さまで、台座蓮弁には一弁ごとにひとつの仏世界が線刻され華厳経の壮大な世界観がそのまま造形されている。華厳経(けごんきょう)を広辞苑で引くと、大乗経典の一。漢訳に東晋の仏駄跋陀羅訳(旧訳華厳経、60巻)、唐の実叉難陀訳(新訳華厳経、80巻)、唐の般若訳(40巻)の3種がある。華厳宗の所依の経典。全世界を毘盧遮那仏の顕現とし、一微塵の中に全世界を映じ、一瞬の中に永遠を含むという一即一切・一切即一の世界を展開している。詳しくは「大方広仏華厳経」…と書いてある。小生の大好きな宇宙をあまねく照らし出すとは、よほどのものに相違ない。考えてみれば聖武天皇も色々なことがあったお人じゃった。皇太子の病没や長屋王の変、天然痘の流行、藤原広嗣の乱と混乱が続いた。そこで万物が等しく栄えるよう祈りを込めて世界最大の鋳造仏を造ろうとした気持ちは想像できそうな気がする。はじめは紫香楽宮で造られる予定だったが、聖武天皇が平城京に還ることによって奈良の現在の場所に造られる事になる。七四五年から造像が始まり、鋳造を終えたのはそれから五年後の七四九年だった。造るのはたいへんでも壊すことは一瞬でできる。アフガニスタン・バーミヤンの磨崖仏も僧侶たちが修行としてこつこつ祈を込めて鑿(のみ)を入れたであろうに、それを一瞬で粉々にしてしまうのも人間の行いなのである。
  大仏殿周辺を闊歩なさっている鹿さんはとくに人懐っこく、小生の車椅子が近付いても怖がるどころか寄って来て持っているパンフレットの紙を引っ手繰ってむしゃむしゃと食べてしまう。おまえは山羊か?奈良公園でお弁当をひろげるときは注意しよう。お相伴に与ろうとやって来た遠慮会釈もない鹿にすべて食べられてしまう羽目になる。いろいろおいたもするが、目がとてもかわいいので観光客の人気者である。しかし、ビニールだけは食うなよ。毎年5月初旬から7月中旬ごろは、ちょうど鹿の出産の時期だから運が良ければ生まれて間もない子鹿に会えるかもしれない。しかし、この時期の母鹿はまだ小さくて弱い子鹿を守ろうと神経質になっているから、むやみに子鹿に近づかないほうがいいかもしれない。母鹿の様子をみて嫌がっているようなら、そっと優しく見守るだけにしよう。小生も一度だけお乳を飲んでいるバンビに遭遇したことがある。微笑ましい光景に出会えて少し得をした気分になった。鹿の大好物かどうかはわからないが、一番たくさん食べているものといえば「鹿せんべい」だろう。この鹿せんべいの原料は米ぬかと小麦粉、そしてお塩だけだというから、とてもヘルシーな食品なのだ。人間が食べているおやつなどは添加物や刺激物がたくさん含まれているから鹿たちは内蔵を傷めてしまうらしいので、ねだられても与えないほうが良いみたいだ。鹿さんと遊んだあとは大仏殿の横の坂道を登り二月堂へ向かう。
  三月一日から東大寺二月堂でお水取りが始まる。お水取りが終わるころ大和路に本格的な春が訪れる。東大寺二月堂修二会(しゅにえ)の行法は東大寺の二月堂の本尊、十一面観音に僧侶たちが世の中の罪・穢れを一身に背負い、代苦者、すなわち一般の人々に代わって苦行を引き受ける者となり、苦行を実践し、国家安泰等を祈る祈願法要だ。俗にお水取りとよばれ、二〇〇二年で千二百五十一回目となり、開行以来一度も欠かされたことがない行法「不退の行法」である。この行法は、もともと旧暦の二月一日から二月十四日まで行われていた行事で、2月に修する法会として「修二会」というのだそうだ。現在は太陽暦を採用して、三月一日から三月十四日まで二月堂で行なわれている。
  三月とは言え夜ともなるとかなり冷え込んでくるが、お松明を見ようと大勢の人が訪れる。この篭松明は童子たちによりかなりの時間をかけて作られるそうだ。篭松明はお水取りの主役で、水の祭りでもあり、火の祭りでもあると東大寺の資料に記されている。お松明の火の粉を被ると無病息災だとか。燃えにくい服装で行くほうがいいかもしれない。車椅子で行く人は早い目から見やすいポジションを確保しておいたほうがいいだろう。小生も一度だけ見に行ったことがあるが、寒いのなんのって、小生も修行をしている気分になった。こんな鼻の下が長いお坊様は居らんか。二月堂へ行く坂道は手動の車椅子だと少しきついかもしれないが電動車椅子だと楽に登る事ができる。二月堂があるなら三月堂もあるということで、次は法華堂に目をやる。この建物は天平創建時の部分が残っている。諸尊像が安置されている奥の部分が天平の建物で前方部分が鎌倉時代に新築された部分だ。本尊の不空羂索観音、両脇に静謐な姿で立つ日光・月光菩薩、その前方に金剛力士、本尊両横には帝釈・梵天が、その後方には吉祥・弁財天、四隅には四天王が立っている。これら十三体はすべて天平時代の像だ。法華堂が「天平の宝石箱」と呼ばれる所以である。小生がとくに興味を持ったのはSF映画のヒーローになりそうな四天王だ。それらの守備位置は東西南北を守護するべく立っている。東に控えしは持国天(じこくてん)なり。国土を支えるもので、刀を主要な武器とし摩尼宝珠を持つ。その起源は「マハーバーラタ」に登場する、インドラ配下の盲目のガンダルヴァの王で、そのことから持国天自身も乾闥婆と毘舎遮を従えるとされる。西に控えしは広目天(こうもくてん)なり。筆と巻子を持つ。異なった目を持つ、もしくは醜い目を持つ。「異なった目・醜い目」とは「第三の目」のことであり、得物も三叉戟(トリシュール)であることから、シヴァと関連づけられても考えられる(ただ、広目天自身には第三の目はない)。三叉戟、索に象徴される。南に控えしは増長天(ぞうちょうてん)なり。須美山の南および、我々人間が住むとされる南瞻部州を守護する四天王。梵名は「ヴィルーダカ」で、「発芽し始めた穀物」という意味を持ち、五穀豊穣を司る。刀や鉾を象徴とする。北に控えしは多聞天(たもんてん)なり。北方を守護し、夜叉をしたがえる。四天王最強の天。単独で信仰されるときが毘沙門天(びしゃもんてん)、四天王として信仰されるときは多聞天と呼ぶ。宝塔を所持。彼等のように護りたいもののために立ち向かえる力を身につけたい。いや、もう既にそのパワーは潜在的能力として誰もが持っているのかもしれない。どんなことがあっても生きぬく生命力や本物の愛情は憎しみという魔性に勝てるだけのパワーを持っている。小生も人間の皮を被った鬼どもを退治する現代の四天王になってやる。なれるかなれないかは別にして現代の人間界にも四天王は必要だという気がする。
  次はどこへ行こうかな。奈良公園周辺を歩いている人達は、やはり修学旅行の学生さんやカップルが多い。肩をならべて本当に幸せそうだ。そういえば、いつだったか母に一人で散歩していて寂しくないのかと聞かれたことがあった。小生の考えでは、本来、人間とは孤独な生き物なのだ。此の世に誕生するときも一人、去るときも一人。だからこそ生きている間は誰かのことを思い、誰かのために生き、誰かのために泣き、誰かのために喜ぶという生き方を私達は選択したのではないだろうか。擦れ違う通りすがりの人と、どちらともなく自然に笑顔を交わしたり、外人さんに頭を撫でだれたリ、電動車椅子に興味を持った子供が寄って来たりして一期一会の縁を嬉しく思いながら、此の世の万物が何らかの形で繋がり、係り合っていることを深く感じるのである。人の手を煩わさず自分の力だけで立派に生きることが自立だと定義する人もいるだろうが、小生は次のように定義する。人は何かに生かされ、自分の意識が及ばないところで何者かによって助けられ支えられている。そのことに気付いた上で己を知り、自己を確立し、判断力や行動力を高め、少しでも自分でできることを増やす努力をして、掛替えのない家族の愛情をバックボーンに、人の手を借りながらでも、ときには好意にあまえながらでも信じた自分の道を行くことが自立だと定義し、これを目標に歩んできたつもりである。
  さて、ここまで来ればもう少し足を伸ばして若草山の麓まで行こう。若草山は標高342mで面積は33ha。山頂に5世紀頃築造の史跡鶯塚古墳がある。毎年、成人の日の前日は奈良の年中行事として山焼が行われている。この他に「鹿せんべい飛ばし」なる面白いイベントもある。冬の間、閉ざされていた若草山は三月中旬頃に山開きされ、この山開きにあわせて十年前から行なわれているのが鹿せんべい飛ばし大会だ。特大せんべいをいかに遠くに飛ばすかという如何にも奈良らしいユーモラスな行事なのだ。のっぺ汁も無料で振る舞われるとか。鹿之介という歌手が歌う鹿せんべいツイストという大会テ-マソングも歌われたそうだ。聴いて笑いたかったが、残念ながら、まだこのイベントを見に行った事がない。電動車椅子で頂上まで登るのは無理だと思うが、山頂から展望する眼下の大和盆地はすばらしい眺めだという。若草山の麓ではお土産屋と旅館が並んでいる。店を見ながら歩いていると店のおばちゃんが「兄ちゃん、気をつけて行きや」と声をかけてくれる。
  若草山を下りて鷺池の浮見堂でのんびり鯉でも見よう。鷺池には檜皮葺きの六角堂が浮いている。大正5年(1916)に建てられ、昭和41年(1966)に修復、平成6年(1994)再建されたが、小生は前のほうが風格があったように思う。周辺の桜がとてもきれいで夜間はライトアップされ、水面に投影された景色は幻想的で、怖いぐらい美しい。ここの鯉に餌をやると物凄い勢いで集まり、我先にと飛び付いて仲間の上に乗っかって凄まじいのなんの。鷺と言う鳥がこの池で餌を啄んでいる。春から夏にかけては風が気持ちいいよ。ボートにも乗れるからデートにも最適。8月6日から15日に行われる「なら燈花会」の期間中は、ロウソクの明かりも加わってまた違った雰囲気を味わえる。
  池といえば猿沢池の采女(うねめ)祭がわりと有名ではないだろうか。中秋の名月の日、猿沢池に入水した采女の霊を祀るお祭り。命をかけるぐらい情が深く、一所懸命だったのだと考えてあげたい。小生もミス釆女に応募しようかしら…、こらっ!気持ち悪いぞ。
  時間があれば、ならまちに立ち寄り町並みを見て歩くのも良いだろう。奈良町の家の軒先に赤い縫い包みのようなものがぶら下がっている。これは、魔除けを意味する「庚申(こうしん)さん」のお使いの猿を型どったお守りだ。家の中に災難が入ってこないように吊るしているのである。災いを代わりに受けてくださることから「身代り猿」とよばれている。また、背中に願い事を書いてつるすと、願いが叶うといわれ「願い猿」ともいう。
  春日大社の参道をゆっくり歩くのもいいもので、大きな鳥居を潜り、木々と石灯籠が立ち並ぶ土の道を行けば、やがて神社へ上がる階段があらわれる。舗装されていないところに風情が感じられる。夕暮方は烏が鳴いてちょっと不気味かな。
  そろそろ日も落ちてくるので、家路につくことにしよう。こうして数時間のツーリングは終わる。
ただいま。

二〇〇二年 春

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