日本三大山城とは

美濃岩村城、大和高取城、備中松山城をさす。

美濃岩村城(岐阜県岩村町)

 美濃岩村城は木曽山脈の懐に抱かれた高原盆地にあり、戦国の世、女城主が君臨した歴史 があり、標高721mの全国で最も高いところに天然の峻剣な地形を利用して、築城された 中世から近世へ683年間連綿として続いた日本城史にも例を見ない長い歴史をもつ名城 である。
 戦国時代には武田、織田、徳川の接点として幾多の戦乱を経ている。甲斐武田軍の侵入の とき城主遠山景任は没し、その妻が事実上の城主として采配をふるった。(女城主とは彼女 のことである)
 美濃岩村城は加藤影兼によって創築後、遠山、森、秋山、河尻、松平、丹羽と続き、森、松平氏 等によって修築拡張され、本丸、二の丸、出丸の外に多くの曲輪が設けれ、石畳や自然の断崖 をもって区画され、要所にやぐら、塀、城門が構えられた。その後松平乗紀が藩主となり、幕 末まで7代166年間続いた。2代松平乗賢、4代松平乗保は老中を勤めている。
 木曽路が近く岩村城跡からははるか御嶽山も望まれる。また、平成2年に復元された太鼓 やぐらのある曲輪では歴史を偲び毎年夏、薪能が行われている。 城下町は岩村川の北側を武家屋敷に、南側を町家に区分され、ナマコ壁、格子戸など昔の 面影が随所に見られる。藩の財政を支援した木村家の屋敷(木村邸)、染物業が営まれた土佐 屋は整備が行われ、染物工場の遺構もあり往時の様子が再現されている。 また、これら古い町並みは国の伝統的建造物群保存地区に指定され、現在も整備が進めら れ、のれんを揚げた商店には魅力がある。
 戦国の女城主の時代にちなみ、(現代版女城主渡辺美佐子)現在も「女城主の里づくり」と して、岩村城女太鼓が結成され、また冬のレディースマラソンの開催、特産品としてサツマ 芋切干「芋姫様」が生産組合を結成し生産され、「女城主」「幻の城」銘柄の日本酒も醸造され ている。また物産市として毎月楽市街道まつり、いわむら歴史の里めぐりファミリーウォークな ど歴史を生かした事業が開催され、多くの人でにぎわっている。 秋祭りには、「みこし渡御行列」が行われ、平安絵巻が町いっぱいに繰り広げられる。町内 には農村景観日本一の地があり、“秋の月待ちお堂めぐり”が行われている。 旧国立第十六銀行は「いわむら町並みふれあいの館」として現在も文化的行事に活用され、 愛知県西尾市(備中松山藩主板倉家の菩提寺長円寺がある)と「ゆかりの郷」協定も締結され 交流が深められている。
 漢学者林述斉、佐藤一斎(備中松山藩山田方谷が幕府昌平坂学問所で学ぶ)の出身地であ り、実践女子大学の創始者下田歌子の勉学所も保存されている。 佐藤一斎顕彰会、佐藤一斎研究会も結成され、顕彰と研究が行われている。
★名古屋駅からJR中央線恵那駅下車、明知鉄道に乗り換え岩村駅下車
岩村町のホームページ
美濃岩村城
岩村城下町

大和高取城
大和高取城(奈良県高取町)

 大和高取城は奈良盆地と吉野地方との間に障壁のように連なる山塊中の高峰にあり、近 世の山城としては異例の高さと規模を有し、標高583.9m、全国で最も比高(山頂と麓の高 低差城の入口黒門から390m、城下町の中心札の辻から446m)があり、中世の山城(カキアゲ城)が築かれて以来幕末まで 600年余りの歴史を持つ。その規模において日本一の山城である。
 大和高取城は南朝の雄、越智邦澄が高取貝吹山に築城したのがルーツとされ、今も越智居 城跡が残っている。越智は能楽越智観世流ゆかりの地でもある。 その後高取城は、越智氏失権後1580年代に豊臣秀長の重臣、本多氏によって本格的な近世の山城として、整備された。 その様式は山城式に平城式手法を加えた山平城様式で大天守と小天守、27の櫓、33の門を持つ壮大なものであった。 続いて藩主となった美濃源氏の流れをくむ植村氏は幕末まで14代234年間藩政を司 り、幕府の要職(老中格)を勤めている。
 城下町は札ノ辻で町家と武家屋敷群に区分され、旧高取藩の家老屋敷(長屋門−植村家)、 武家屋敷(田塩家)など数軒の武家屋敷が現存し、土佐の町(大和政権時代、土佐の国から移り住みついた地とされる) を中心に低い軒先、出窓、格子戸の古い町並みが続き、土佐街道には古くは油屋、鋳物屋、呉 服屋など500軒が軒を連ねていたと言われている。古い店構えが残る山崎邸(呉服屋)、伊 勢屋(臼井家)など昔の面影がしのばれる。現在この山崎邸を改修し、観光協会観光案内所「夢創舘」、 土佐街なみ集会所として多くの方に利用されている。 また、町筋には防火の役目をした側溝が両側にあり、門戸の柱には駒止めの環も残っている。 幕末には高取藩が大和五条代官所を襲撃した尊王攘夷の急進派天誅組を迎撃、撃破した 鳥が峰古戦場(現在の町役場付近)もある。
 高取町は「くすり」の歴史の町であり、万葉の昔から薬とのつながりがあり、江戸時代には 幕府薬草見習いとなった土佐村藤九郎、観覚寺勘兵衛が城山で薬草を栽培し、研究した歴史 もある。 「先用後利」(先に薬を使い、後に代金を支払う)の独特の商法で“大和の薬売り”の名で親 しまれ、現在も薬が地場産業の大半を占め、くすり産業の基盤づくりが行われている。 秋の城まつりには華やかな時代行列が繰りひろげられ、多数の見物客でに ぎわっている。 大和高取城麓の壷阪寺はお里沢市の浄瑠璃「壺坂霊験記」で有名であり、インドから渡来 した高さ20mの大観音石像が新しい名所となっている。 町内には古墳600基があり、香高山摩崖仏(五百羅漢など)など見所も多く、近くにはキ トラ古墳、高松塚古墳もあり、古代、中世、近世、近代の歴史の流れを見ることが出来る。 特産品には、薬、投薬容器、印刷、木材加工などがあり、特に製薬産業、家庭配置薬業が盛ん であり、漢方薬の店、薬膳料理の店もある。 俳人阿波野青畝(虚子門下4Sの一人)の出身地であり、生家も残っている。
★大阪あべの橋から近鉄南大阪線(吉野線)壺阪山駅下車
高取町のホームページ
高取城下町

備中松山城(岡山県高梁市)

 備中松山城は山陽と山陰の間に連なる吉備高原の峰、臥牛山大松山(480m)に砦が築 かれ、後に小松山(430m)に築城されてから750余年の歴史が刻まれる。その間に、秋 庭、高橋、高、上野、庄、三村、毛利、江戸時代に入り小堀、池田、水谷、浅野、安藤、石川氏が代官、 城主となり、最後の藩主板倉氏7代125年を経て幕末に至っている。
 小堀遠州は備中松山城、御根小屋の修築を開始し、水谷三代の間に備中松山城の大改修が 行われ、現存する天守、二重やぐら、門など近世城郭の全容が完成した。またこの時代に玉島 新田の開拓、高梁川の船運開発、玉島港改港工事などが行われた。 備中松山城は中世の遺構を備えた近世城郭であり、日本の山城の典型とも言われ、天守閣 が現存する唯一の山城で日本一高い所にある。
 戦国時代の毛利・宇喜多連合軍と三村氏の戦いは「備中兵乱」として伝えられ、尼子氏の勇 将山中鹿介の生涯を終えた地は市街地から近い。 なお、元禄年間の浅野家家老大石内蔵助と水谷家家老鶴見内蔵助の備中松山城受取りの 状況は二人内蔵助として世に知られている。 また、幕末の備中松山藩主板倉勝静は老中首座として15代将軍徳川喜慶をよく補佐し、 明治維新を迎えている。
 城下町は、北方の備中松山城を中心に臥牛山麓の御根小屋周辺及び東方に武家屋敷、神社、 寺院、西方に商人の町、職人の町が連なり、町割りに全体を一つの防御的性格を持たせてい る。 武家屋敷(折井家)、商家資料館(池上邸)頼久寺及び小堀遠州作の庭園など時代が偲ばれ る建築物が多い。明治になり現存する県内最古の高梁キリスト教会堂、国立第86銀行が設 立され、それは現在中国銀行として発展している。これら伝統的建築物群の調査が終了し、 現在町並み保存事業が進行し、古い蔵の保存活用のための整備も行われている。 平成2年吉備国際大学の開学により、既設の順正短期大学、順正高等看護専門学校ととも に、学生数も約4,000名と多く、学生の町ともなり、公開講座、市民大学の開講など市民 の学術、文化の振興に多大の貢献をし、現在学園文化都市づくりが進められている。
 幕末に藩主板倉勝静を補佐し、藩政改革を断行し成功させ、更に学問を普及した漢学者山 田方谷、その薫陶を受けた新鶏渓の出身地であり、二松学舎大学を創設した三島中洲(現倉 敷市出身)は備中松山藩士である。人間国宝米川文子(箏曲)、清水化庵(歌、書、画)の出身地 であり、伝統文化、芸能に関する市民の関心は高く、小堀遠州学の研修、高梁方谷会、高梁比 庵会、高梁三曲会などが結成され精進が続いている。 また、春には桜祭り、夏には352年の伝統を誇る備中たかはし松山踊り、秋には備中松 山城登城フェスティバル、市民文化祭、小堀遠州顕彰事業、冬には“城下町を走ろう”マラソ ン大会などが盛大に行われ、国指定重要無形民俗文化財備中神楽は四季を通じて演舞され ている。
 茨城県下館市、三重県亀山市、兵庫県赤穂市、岡山県倉敷市玉島とは歴史的絆により友好、 交流が行われている。
★岡山よりJR伯備線備中高梁駅下車
高梁市のホームページ
備中松山城
高梁城下町

(注) 2000(平成12)年現在のデータ

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