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Title : Standing the edge of Depth
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1.深淵に立って

 この章では、近頃騒がれているインターネットやマルチメディアについての展望を語る上で、これからキーワードになるであろう言葉を取り上げました。たいていの読者にとってはそれほど馴染みのある言葉ではないかも知れませんが、私の情報化進展の流れの把握の仕方から言えば重要だと思える言葉を選んでみました。
 要するに人も情報もつながりあうことによってその力を存分に発揮することができるのだということです。それを情報通信技術が支援する。そのためにもコンピュータもつながりあうことが要請される。そういう働きをするためにコンピュータは生まれた、"Computers are born to be wired"という主張の基礎になっている考え方・視点です。

1.1 The Silent Service

 7年間にもわたった「沈黙の艦隊」の連載が最近終了した。
 一言で言えば1隻の潜水艦が世界を股にかけて暴れまくって、挙げ句の果てに核兵器廃絶と世界政府樹立への動きを作ってしまう荒唐無稽な劇画である。もちろんネタがネタなので軍事オタク的な読み方もできるであろうし、単なる戦争モノとしても楽しむことができる。
 しかし私はこの物語を「運動論」として読んだ。すなわち私にとっては、1つの運動がいかにして世界に広がっていくか、そしてその途上におけるメディアや国家のあり方はどのようであるべきかを考えさせてくれる作品であったわけだ。
 その最終回に近い場面で、ある登場人物が世界に向かって「独立宣言」を行う。

 最後に世界市民に申し上げる!
 各々の国家・民族・団体に所属したまま“沈黙の艦隊”の一員として独立して欲しい。
“沈黙の艦隊”はいかなる人間の参加をも歓迎する!
 世界市民の一人一人が“沈黙の艦隊”の一員として自覚すること、それだけが隊員としての証明なのだ!
(Voyage 350;深町特使の科白)

と。
 ストーリーの展開にとって、この科白は極めて重要な位置を占めるのだが、それにとどまらず、この内容は人と人との直接的なつながりを呼びかける時には常に成立するテーゼである。

 例えば“Netizen”である資格とは、“自分はNetizenである”という自覚があることではないか?
 つながりたいという強い意欲があること、ではないのか?

 インターネットの形成について「技術の進歩によりコンピュータのネットワーク化が進んだ」とよく目にするが、これは嘘だ。つながりたいという情念がインターネットを生んだのだ。

[今回のタネ本]
  • 「沈黙の艦隊」(かわぐちかいじ);講談社
  • 「沈黙の艦隊 解体新書」(時尾輝彦 編著);講談社
  • 「インターネット」(村井純);岩波新書(いわゆる「村井の赤本」)

1.2 Conviviality

 イヴァン・イリイチという名前が一般にどの程度の認知がなされているかはよくわからないが、思想界では「ジェンダー」という言葉を根付かせた人で、熱狂的な「信者」も少なくないように見受けられる。
 要するにこの人が主張していることは以下のようなことである。

 制度や機械はもともと人間の生活を便利にするために作られたはずなのに、その機能が自己目的化し、今では立場が逆転してしまい、人間がそれらに合わせるように迫ってくる。まるで学校での授業のように「それがなぜそうなのか」は問われず、「こうだから従え」と迫ってくる。このような「学校化した社会」から抜け出ねばならない。
 制度であれ道具であれ、人間を従わせるモノではなく、また、人間に従わせるモノでもなく、人間とともに働く、人間の潜在力を引き出すもの−Convivialなもの−であるべきだなのだ。

 この考えは、1960年代のハッカーたちの心をとらえた。当時のコンピュータはメインフレームしかなく、一部の専門家・特権階級ののでしかなかった。しかもパンチされたカードをコンピュータの所へ持っていき、結果も指定の場所へ取りにいく、という極めて機械中心的なものであり、開かれたものではなかった。この状況を打開したいと思っていた人々がConvivialな道具を作ろうとした。
 それが現在パーソナルコンピュータと呼ばれるものの淵源である。

[今回のタネ本]

  • 「インターネットが変える世界」(古瀬幸広 廣瀬克哉);岩波新書
  • 「コンヴィヴィアリティのための道具」(I.イリイチ);日本エディタースクール
  • 「脱学校の社会」(I.イリイチ);東京創元社

1.3 ZANADU Project

「誰もが Mosaic を見て“こいつはすごいプログラムだ”って言うけど、それはばかげている。水道の蛇口を見て“この蛇口はすごいぞ、こいつが水をここまで運んで来るんだな”と言うようなものだ。水を運んでくるのは蛇口じゃないだろ。」

 大流行の WWW に対してこんなことが言ったのは Ted Nelsonである。
 この人がいなければ WWW は出来なかったと言ってもよいと私は思う。もちろん WWW そのものを実装したのはCERNであるが、その思想的根源−互いに関連する情報同士を結びつけた、世界規模の知識共有体の構築−を提唱し、HyperTextと言う言葉を生み出した人なのだから。
 彼の夢−全ての知的資産はネットワーク上で流通し、多くの人によって共有され、しかもオリジナルの作者への対価がきちんと支払われる仕組みの構築−は壮大であり、現状の WWW などは、その本の一部を実現したにすぎないのだ。それが冒頭の発言になったわけだ。
 情報はひとりぼっちじゃない−この単純な事実をネットワーク上で表現して見せようと言う彼の試みは未だ挑戦の途上である。
 彼の計画をXANADU Projectという。Xanadu(ザナドゥ)とはマルコポーロの「東方見聞録」に出てくる、北京のはずれにあったとされる幻の街の名前である。彼は今、札幌にあるサッポロ・ハイパーラボで研究を続けている。現地の若い研究者達と共にXANADUへの終わりなき夢を、今も追いかけ続けているのだ。

[今回のタネ本]

  • 「リテラシーマシン」(T.ネルソン);アスキー出版局
  • 「コンピュータ・カウボーイの伝説」(WIRED 1995.5);同朋舎出版

1.4 Vulnerability

 NetNews においては「言い出しっぺの法則」というのがあるらしい。
「こういうFAQ(Frequently Asked Question)のPageがあればいいですね。」とPostしようものなら、「じゃあ作ってくれないかな。」なんて周りからはやし立てられて作る羽目になること。
 これを「自発性のパラドックス」とも言うらしい。つまり、自分自身が進んで行動を起こした人はいっそうの自発性を発揮することを期待され、しかも傍観をしているだけの人の分までの負担を押しつけられてしまうこと。

 Voluntaryな行動を採るということは、この自発性パラドックスに自分を投企すること、すなわち他からの「攻撃」にさらされやすい状態−Vulnerableな状態−におくことである。しかしそのことによって、他の人から力をもらうための窓をあけることができる。

 「情報」というと、とかく人は自分の手元に抱えておきたがる傾向がある。特に中高年の方にはその傾向が非常に強い。情報を多く持つということが美徳であった時代とは、変化が少ない時代のことであって、現代は処理能力の速さのほうが重要である。抱えた情報などすぐに陳腐化してしまう。それよりも、情報を自ら投げかけることによって、新たな動的情報を手にすることに力を割くべきなのである。情報はもちろん、世界だって生きているのだから。

[今回のタネ本]
  • 「ボランティア」(金子郁容);岩波新書
  • 「インターネットストラテジー」(吉村&金子&松岡);ダイヤモンド社

1.5 Digital Convergence

 「マノレチメディア」と言う言葉がある。一体何を意味するのか、どう使うべきなのか、全く議論がなされないままに、あまりに「マルチメディア」「マルチメディア」と騒がれている状況を揶揄する表現である。これと同様のモノに「イソターネット」がある。MosaicやNetscpape NavigatorをつかってWWWをいくらかさまよっただけで「僕ぁ、インターネット使っててね」とのたまう方を指して、「いやいや、彼が使っているのはイソターネットだよ。」などと使う。
 確かに大騒ぎのしすぎであるかもしれない。今回の「マルチメディア」騒ぎも、10年前の「ニューメディア」騒ぎと同様、「騒ぎ」で終わってしまうのではないかと見る向きも少なくない。
 もちろん「マルチメディア」をどう捉えるかにによってこの問いに対する答えは幾通りにも考えられるが、私の定義では以下のようになる。

 「マルチメディア」とはDigital Convergenceという巨大な流れの20世紀末における呼称であり、言葉としての「マルチメディア」は数年で滅びるであろうが、現象としては定着していくであろう。

 Digital Convergenceとは字句の通り、様々な情報がデジタル化に収斂していく現象を指す。
「マルチメディア」=「音と画像」と思い込んでいる方には、E-cashだのPDA(Personal Digital Assistants)だのモバイルコンピューティングだのが「マルチメディア」と関連して語られることが理解しがたいだろうが、それは Digital 化という大きな流れを見ていないからである。
 特に日本では未だに「言霊」が生きているようで、言葉が蔓延すると古くなったと思い込んで、深く現象を追いかけない傾向がある。現象をきちんと見ていきたいものである。

[今回のタネ本]
  • 「being digital」(N.ネグロポンテ);アスキー出版局
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Updated : 1996/04/30