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Bookshelf #014 : Nation and War
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『国家と戦争』
(小林よしのり&福田和也&佐伯啓思&西部邁)

 小林よしのりの『戦争論』が50万部以上売れている。1998年夏に出版されて以来、今(1999年6月時点)でも書店によっては平積み扱いである。その一方で、この『戦争論』に対する批判もかなり出ている。この『国家と戦争』は、それらの批判に答えて、というか、それらの批判をぶっつぶしていく−批判になっていない、軟弱なものだと断定する−ための対談をまとめた本だ。

 『戦争論』はマンガで描かれているから、読みやすいと言えば読みやすい。何も考えなくてもページをすいすいとめくることができる。そして作者の意図が知らぬ間に読者の脳裏に焼き付けられるかもしれない。が、その点を批判したところで、的外れである。それは作者(もしくは作品)を批判しているのではなくて、読者は作者にいわば「洗脳」されていると、読者を愚弄することになるからだ。

 私の理解では『戦争論』は単純な戦争賛美論ではない。(が、かなり内容は大東亜戦争肯定論的であるのは否めない。)
 その時代の当事者が選択せざるを得なかったこと、そしてその選択の結果として招いてしまった事態を引き受けることをもう少し考える必要があるのではないかということだと思う。後づけの理屈ではいろんなことが言えるのだが、自分の祖先−とはオーバーだが、とにかく前の世代の人々−が、ある事態に遭遇して、それなりに苦悶して選んだ結果は、それがいかに愚劣なものであろうとも消すことはできないわけであるし、後の世代はそれをいったん引き受ける必要があるのではないか、とも考えられる。だから戦争は正しかった、というのではない

 たとえば、今(1999年6月時点)開催中の通常国会では、歴代の内閣が為し得なかった法案をいくつか成立させてしまっている。さほど遠くない将来、東アジアもしくは太平洋北西部において武力紛争が起こった場合には、これらの法律にしたがって軍事行動が発動されるであろう。結果がどうあれ、事態沈静後、次のような批判が出てくるに違いない。−この戦争は間違いだった。ガイドライン法なんて通過させた当時の国会、そういう国会議員を通した当時の有権者は馬鹿で愚劣で批判能力など全くなかったのだ−と。もしその時私が生きており、そういう批判を耳にしたら、どう答えることができるだろうか。
 現時点から戦争時の批判を行うのは、これと同型のことではないのか?

 もうひとつ『戦争論』もしくはこの『国家と戦争』の奥底にあるのは、歴史をどのように背負うのかというテーマであるように思う。
 私は1966年生まれだから戦争を知らない。70年安保すら記憶にない。1945年に終わった戦争について「責任をとれ」と言われても、正直なところ、困るのだ。私が戦争を起こしたわけでもないし、戦争に荷担したわけでもない。そもそもその時に存在していなかったわけだから、それをリアルに感じろと言われても、そのような感覚を持って生まれているわけではない。アジアの方々に申し訳ないという気持ちを持つとすれば、それは後天的に得た知識に基づくものだ。

 レバノンとイスラエルの問題は2000年前にイスラエル人が追放されたことに原因があるという。コソボ問題も確か400年ほど前にアルバニア人が移住させられたことに端を発するという。当時の人間の思惑とは別に、その地に生まれ落ちてきたことについては、それぞれの個人に責任があるわけではない。それは偶然だ。「偶然」という言葉が嫌悪をい招くなら「運命」と言ってもいいが、なぜその地に生まれてこなければならなかったのかということに関する合理的な説明はない。それでもその地で生きていかなければならないのならば、その地の持つ運命(宿命)、その地に住む人たちの持つ宿命を背負って生きていかざるを得ないのではないか。

 日本に生まれてきてしまった偶然を否定することはできない。たとえ日本という国家に忠誠を誓わなくても、日本で生活し、「日本人」として振る舞うためには、これまで日本に住む人たちが行ってきた行為の結果(おそらくこれは「業(ごう)」と言ってよい)を受け止めざるを得ないのではないだろうか。
 もちろん、そんなのオレにはカンケーねーじゃん、という自己中心主義的な立場もあろう。しかしそういうことを言っていられるのも、おそらく日本の中で呑気に暮らしていける時代が続く間だけだろう。

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Updated : 1999/06/06