Location : Home > BookShelf > 1999 Bookshelf #004 : The Cathedral and Bazar / Homesteading the Noosphre |
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原文の最新版はそれぞれ
ソフトウェア開発の方法論として、伽藍方式とバザール方式があるという。
論文の中に定義を明文化しているわけではないが、前者は設計者がすべてを計画し、大がかりな体制を組んで、特に企業などが行うプログラム開発のことを指している。それはちょうど大聖堂の建築のように厳かで大仰であることを示している。
後者はどこの誰ともわからないもの同士がモノとカネを交換するように、技術とアイデアとを持ち寄って互いに交換し、全体をまとめるものがいないために雑然としながらもそれなりの秩序をもち、コミュニティが成立している様を指すと思われる。この例として上げられているのがLinuxの開発スタイルであるOpen Source Software である。
1人もしくはグループが独自のアイデアと技術を投入し、それを無報酬または報酬のもとで配布するFreeware / Sharewareとは趣きを異にする。ソースコードごと公開し、誰もが自由な改変をほどこすことを認める(彼等の用語では"hack"できる)という形態である。誰もが自由に機能を追加してもよい。しかしそれがつまらないものであれば誰も見向きがされないだけだ。
バザール形式での開発が有効であるためにはいくつかの条件が必要となる。
1つは、開発の最初からバザール方式を用いることはできず、多少いいかげんなものであっても、とにかく動いているという実績があることである。ただし、手を施せばスゴイ代物になりそうな予感をもたせるようなものでなければならないが。
そしてもう1つは、コーディネーターがすべてを生み出す必要はないが、他人が見つけたよいアイデアを理解し受け入れることができることである。
UNIXの歴史も、インターネットの歴史も実はこの動きによって支え続けられてきたわけだ。それが昨今の企業参入でビジネスライクなものが幅をきかせて来たが、最近になってNetscape Communications社(AOLに買収されちまいましたが)がNetscape Communicatorのソースコードを公開すると発表したり、Sun MicrosysytemsもJavaについてそれに近い行動をとったりと、新たな動きを見せている。ひょっとしたら、新たな「革命」がここから起こるのかも知れない。
Open Source Softwareとして公開されているソフトウェアについては、たとえそれを最初に提供した人間であっても、そこから何か収入を得ることは難しい。まあ、解説書を書いたり、そのソフトを手がけたということでよい就職口が見つかるということはあるだろうけれども。それでは人はなぜこのような「得にならない」ことに没頭するのか。
それは、ただただそういうものを作ってみたいというだけの動機ということもあろう。一種の技術の誇示−論文の中では"Marking"という言い方をしている。例えは悪いが、犬が散歩の途中で電柱に小便をかけたりするのも"Marking"だ。つまりこれと同じように(!)、「俺はここまで来たぞ」的な宣言をしたという意味だろうか−と言えよう。
そしてそういう事柄に対する承認というか、それを名誉なことだと思う風潮がある。
それともう1つ不思議なのが、世界中のあちこちで勝手に活動しているにもかかわらず、1つのプロジェクトで破綻的な衝突もなく、自生的秩序が発生してうまく機能していくという事実である。暗黙のネットワーク文化を共有する者たちの活動であるからということも言えるかもしれない。その文化からの逸脱に対する自浄作用がビルトインされているというわけだ。
もちろんこれらはネットワークにおけるソフトウェア開発の議論であるが、社会変動や社会運動論にも適応できるのではないかと、私は思う。誰かカリスマ的な指導者とその追随者の成す組織による指導体制はいわば「伽藍方式」であり、非常に「デバッグが遅い」ものとなる。しかし「バザール方式」であれば、「目玉の数が十分」であるので「どんなバグも深刻でない」ということが可能になるかも知れない。
特に、理論的な正当性や全体の整合性などよりも、とにかく動くこと(It works!)を優先するという姿勢は、徹底した現実主義とも言える。もともとネットワークはそのように機能する(Net works ?)ものなのかも知れない。
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Updated : 1998/12/14
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