
こんにちわ、本館学芸員面独斎こと西村です。更新せねばという気持ちのあせりはあるものの、なかなか思うに任せず、とうとう年を越してしまいました。いつものことながら公約破りの面独斎(*_*)でございます。
さてさて、今回は「郡山町名尽」(【写真1】)を紹介させていただきます。名前だけで、どのような史料かおわかりの方はおられないのではないでしょうか? これまで6回は館蔵名品珍品あれこれといいつつ、名品ばかりを紹介してきましたが、今回はどちらかといえば珍品の部類に入る史料です。
この史料は「こおりやまちょうめいづくし」と読みます。いつ頃作られたものかははっきりしたことはわかりませんが、おそらく明治時代のものではないかと考えられます。たわむれに詠まれた戯歌の類ですが、柳町を初め郡山の町名が全部で23も詠み込まれたものです。さらに、「大橋」を奈良口の秋篠川にかかる大橋と考え、これを奈良口町の代わりとすると全部で24になります。
少し長いですが、その歌詞を紹介しておくと次のとおりです。
郡山町名尽
実おもしろや、君が代は、よむとも尽し言の葉の、其名も高き郡山、町の数々詠れハ、人のこころもやわゝゝと風にも忍ぶ柳町、緑とともにさく咲く花に、君をとめてゝ岡町や、おもひ入たり一念は、石にも立や矢田町の、つつ姿は(〃も)あらわれて、うき名やよそに高町田(田町)、恋の重荷を積載て、君にひかるゝ車町、かくと丸との人こころ、材木町ハ色とかや、唯世の中のまかりをも、すくに直すや大工町、ふかき心と満入て替らぬ色ハ紺屋町、都女郎は色白く、きめのよひのハ豆腐町、華のさかりは過ぬとも色の盛ハ今井町、いつれこころハ片はらぬ、すいとやほどの堺町、心のたけきものゝふも、恋にやわらく綿町や、おもふ心ハ神かけて偽りならぬ本町や、親子夫婦の中よきハ誠に水と魚屋町、ころりと人をころすのか、君かめもとの塩屋町、たれとの(〃〃に)引れてうかうかと今宵ハ爰に藺町や、せうねのわるい女郎衆雑魚寝の雑穀まつ恋そつもりて渕となる、身のすへ何と奈良町や、人の姿ハ黒くとも、こゝは白き鍛冶町や、二人の中ハいつ迄も薄きはいやよ濃茶町、観音寺町祈りなはいつかは君に大橋や、爰も名に逢ふ名所とて咲やこの花難波(何和)町、只何事も平らかに治る御代や平野町、野辺山々も蒼々と賑ふ春こそめでたけれ(下略)
歌詞の調子だけみてもたいへん滑稽な、そしてたいへん味わいのある歌です。出だしが「実おもしろや、君が代は、よむとも尽し言の葉の、其名も高き郡山、町の数々詠れハ」(【写真2】)と始まりますが、「其名も高き郡山」とあるあたり、詠み人の郡山に対する思い入れのほどがよくうかがえます。その歌詞も軽妙ななかにうまく町名が詠み込まれています。
そのいくつかの写真を紹介しておきますと、【写真3】は大工町を詠み込んだくだりで、1行目の2文字目から3行目にかけて「唯世の中のまかりをも、すくに直すや大工町」とみえます。郡山城下町を造った豊臣秀長によって当初大工が集住させられたといわれる大工町ですが、家などの修繕をする大工の仕事をもじった歌詞となっています。
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また【写真4】は、3行目4文字目から6行目にかけて「都女郎は色白く、きめのよひのハ豆腐町」とあります。女郎の色白さと豆腐をかけあわせた歌詞です。ちなみに、豆腐町も大工町と同様に秀長によって当初、豆腐屋が集住させられたといわれる町です。
そして【写真5】は、1行目の5文字目から3行目にかけて「親子夫婦の中よきハ誠に水と魚屋町」と、魚町(現在は、「屋」は入りませんが、塩町が「塩屋町」ともよばれていたように、「屋」をつけられてよばれていたこともありました)の町名が詠み込まれています。これは大変仲の良いことを「水魚の交わり」という言葉であらわしますが、それにかけた歌詞です。
いずれとも、その由来などにひっかけておもしろおかしく郡山城下の町名が詠み込まれています。これだけの町名を詠み込むことはたいへん難しいものですが、誰が詠んだものなのか、残念ながら不明です。
ちなみにこの歌は郡山の豆腐町に暮らしたコレクターとしてたいへん有名な水木要太郎氏のコレクションの一つです。要太郎氏は、明治23年(1890)に郡山にやって来ます。ついで同28年(1895)郡山中学校の教員として教鞭をとりました。その後、同42年(1905)に奈良高等女子師範学校教授となり郡中を去りますが、郡山には昭和13年(1938)に74才で亡くなるまで48年間暮らします。その間、多くの郡山の文化人とも交遊を結んだと考えられますが、そのなかの誰かが詠んだものでしょうか。あるいはまた、俳諧や和歌を好み数多くの作品を残している要太郎氏自身の作かもしれません。
歌の終わりが「賑わふ春こそめてたけれ」と締めくくられています。桜の名所として早くから知られていた郡山城跡で、満開の桜のなか皆が花見を楽しむなかで座興として詠まれたものでしょうか。
明治時代においても、要太郎氏等郡山中学校(郡山高校)の教員たちを初め和歌や俳諧を嗜む人が多かったといわれる郡山ならではのものかもしれません。
(本館学芸員 西村幸信 20050115)
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