=第5回=
 こんにちわ、このコーナーお久しぶりの面独斎こと西村です。はや2ヶ月に一度更新という公約は潰え去ってしまいました。これでは某内閣総理大臣よりもひどいかもしれませんね.....。反省ザル<(_ _)>の心境でございます。反省のあまり毎度の言い訳は差し控えさせていただきたいと思います。同僚のお奈美さんこと梅原さんにいつもの物忘れついでに公約も忘れたのか、と言われそうです。

 さてさて、本題に入りたいと思います。今回は、来る9月25日(土)よりオープン予定の秋季特別展「文人大名柳沢吉里と和歌の世界〜柳沢家の文物にあらわれた四季〈二〉〜」のなかで初公開予定の柳沢家伝来の重宝について紹介させていただきたいと思います。ありていに申しますと、特別展の超目玉品の前宣伝です。その重宝とは「霊元上皇下賜柳沢吉保愛用硯」、「霊元上皇下賜柳沢吉里拝領霊芝」の二品です。いつものような柳沢家の歴代当主の書跡や絵画というわけではありませんが、霊元上皇から柳沢家に贈られて門外不出の家宝として伝来してきた品々です。
 その紹介に入る前に霊元上皇とは誰だ?という方もおられると思いますので少し説明しておきたいと思います。霊元上皇は後水尾天皇の第十九皇子として生まれ、寛文3年(1663)に兄後西天皇から譲位されて即位しました。天皇在位中は大嘗祭や立太子式の再興など朝廷の儀式の復興に力を注ぎ、貞享4年(1687)に東山天皇に譲位して退位した後は院政をおこなっています。そのなかで朝廷の権威を取り戻そうとして幕府とはたびたび対立したといわれています。そうした一面、歌人として江戸時代中後期の京都歌壇をリードした人物としても有名です。霊元歌壇ともよばれた霊元上皇を中心とした歌人たちのサークルには、伏見宮邦永親王、正親町公通、武者小路実蔭をはじめとする堂上歌人たちが名を連ねていました。霊元上皇はそのリーダーとして享保17年(1732)に79歳で崩御するまでその生涯に数多くの詠歌を残しています。
 では、なぜそうした人物から柳沢家にこのような硯や霊芝が贈られてきたのかと疑問が生じるかもしれませんね。柳沢吉保といえば、当時五代将軍徳川綱吉に側用人として仕え、最後は大老格にまで登り詰めた人です。いわば、武家側の政治的実力者であったわけです。そうした地位にあった吉保に霊元上皇が賄賂としてでも贈ったのだろうかと思われる方もおられるかもしれません。しかし、それは違います。先ほどもふれましたように霊元上皇は武家にへりくだるような人物ではありません。それでは、なぜなのかという点を理解するのには柳沢吉保・吉里親子の文化人としての活動、その名声をふまえて考えなければいけません。
 吉保といえば、俗説では側用人として綱吉にこびへつらって、権勢をほしいままにした、悪の権化のような言われ方をしています。その曲解があたかも真実であるかのように考えられ、お金や権力しか目になかったかのように思われていますが、その実は京都歌壇でも認められた超一流の歌人だったのです。吉里も父の才をあますところなく受け継ぎ、早くから京都でもその才能を認められていました。吉保・吉里親子の詠歌はたびたび霊元上皇の選を受け、加点(詠歌を添削することです。上皇に添削してもらうことは歌人として最高の名誉とされていました。ただの添削ではありません)を受けています。特別展でもその一部を公開しますので楽しみにしていてくださいね。親子は霊元上皇とだけではなく、そのもとにつどう堂上歌人たちとも深い交友を結んでいました。
 そうしたつながりのなかで、今回紹介する硯と霊芝は贈られてきたのです。
*霊元上皇下賜柳沢吉保愛用硯

 
まず、吉保愛用と伝えられる硯からみていきましょう。【写真1】がその全体写真で、左横は硯箱の箱書きです。【写真2】はそれを横から撮影したものです。硯の頭の部分に中国の文士でしょうか、何かを背負った人物があしらわれています。吉保が愛用していたと伝えられるものだけに、中央のあたりに墨をすったときのものでしょうか、摩耗したくぼみがみえます。
 【写真1】にもみえる箱書きに「仙洞様より御拝領御硯石/ 宝永六己丑年十二月二日於伝奏屋鋪正親町前大納言様御渡」(【写真3】箱書き部分の拡大図を参照)とあります。ここに「仙洞様」とあるのが、霊元上皇のことです。「正親町前大納言」が霊元歌壇のメンバーでもある正親町公通です。このことから、宝永6年(1709)12月2日に霊元上皇より江戸に勅使として下向していた正親町公通を通して下賜されたものであることがわかります。まさに吉保と霊元上皇を中心とする京都歌壇との深いつながりをうかがわせてくれる物です。

*霊元上皇下賜柳沢吉里拝領霊芝

 
 吉保愛用硯とともに霊元上皇と柳沢家との深いつながりを示しているのが、【写真4】の霊芝です。霊芝とは、万年茸の傘の乾燥したものです。暗紫色でかたく、みがくと漆に似た光沢が出ます。腐ることがなく、縁起物として珍重され床飾りによくもちいられています。
 この霊芝を納めた箱蓋の裏書き(【写真】5箱蓋表書き、【写真6】箱蓋裏書き)には「霊芝一枝此 仙院紫庭生所也、正徳六年夏正親町一位公通卿為 勅使下向于関東因茲五月廿三日有 奉書綸言併 勅賜薫衣香一袋宜永宝重焉」とあります。ここで「仙院紫庭」とあるのは仙洞御所のこと、つまり霊元上皇の御所のことです。そこでこの霊芝は生えたとあり、それが正徳6年(1716)夏にこれまた正親町公通が勅使として関東に下向したときに、公通を通じて5月23日に薫衣などとともに下賜され、柳沢家の家宝として伝来されたものであることがわかります。
 特別展の主役である柳沢吉里もまた、父吉保に劣らず歌人としてその名を京都でも広く知られていました。その歌人としての本格的なスタートにあたる初度千首は霊元上皇の選を受けて、その手元に受納される栄誉を受けています。霊元上皇は吉保に対してと同様に吉里のこともたいへん気に入っていたようで、若い吉里の詠歌をたびたび加点することを通して指導しています。吉里もまたその歌集である積玉和歌集巻一の序文のなかで霊元上皇から受けた指導に対する謝意を述べています。また、こうした霊元周辺の堂上歌人と吉里が深い交友を結んだことはいうまでもありません。堂上歌人と吉里、そしてその父吉保との間にとりかわされた書状が本館に残されています。宣伝ばかりで恐縮ですが、その一部も特別展で公開の予定です。ご期待ください。
 以上、二つの柳沢家伝来の重宝について紹介してきました。くりかえしになりますが、この二つの品は吉保・吉里親子の歌人、文化人としての名声の高さが十分にうかがえるものです。この二点につきましてはふだんは非公開で、特別展会期中の特別公開ですのでこの機会にお見逃しなく。この他にも、特別展では吉里の詠歌を中心に、京都歌壇から贈られた「十二ヶ月和歌絵巻」など、吉里と吉保の親子をとりまく和歌の世界をあますところなく公開いたします。
 とかっこう良く締めくくりたいところなのですが、現在なかなか煮詰まらない企画内容の見直しと解説パネルの執筆に追われ、四苦八苦しております。なんとか会期に間に合わせるべく必死の作業を進めたいと存じますので、ぜひお越し下さい。今回は、かなり短めの珍品名品あれこれになりましたが、次回なるべく早く更新できることを念じつつ、このあたりで終わりとさせていただきたいと思います。

(本館学芸員 西村幸信 20040907)     

館蔵珍品名品あれこれ
第1回「六義園絵巻」 第2回堯山書「放下放不下」「以弱勝強」
第3回柳里恭「恨別詩」 第4回「荻生徂徠書状」
第5回霊元上皇下賜硯・霊芝 第6回「郡山八景和歌」・「和州郡山八景」
第7回「郡山町名尽」 第8回明治時代の引札
第9回徳川綱吉書「過則改勿憚」 第10回柳沢吉里画「柿本人麻呂像」
第11回スクラップブック 第12回朱印状・領知目録
第13回柳沢吉保和歌懐紙二幅 第14回柳沢吉里画「武田二十四将図」
第15回柳沢信鴻画「山水図」 第16回柳沢保申書「在知人在安民」
第17回「柳澤家中旗指物図」・「旗本備立図」