=第4回=
こんにちわ学芸員面独斎こと西村でございます。面独斎君の思考回路を破壊してくれる同僚のお爺ちゃんたちの一日中絶えることのないおしゃべりと、毎日毎日の暑さにかなりうんざりしている今日この頃にございます。みなさんはいかがおすごしでしょうか?
 さてさて、二ヶ月に1回というペースを死守せんがために必死に原稿を書いております。今回は、全くの初公開、正真正銘の珍品、いやもとい名品の紹介です。そのモノといいますのは田中清大夫宛ての荻生惣右衛門書状(【写真1】)です。写真だけじゃその内容まで見にくいかもしれませんので、私の拙い釈文をあげておきますね。
  昨日被伝 仰候趣委
  細謹而相考別紙
  書付差上申候、
   保山
   北山
   條山
  何も帰納字并ニ生尅共ニ
   條山
  宜敷奉存候、
  御先祖様御称号之
  内武田ハ武字御遠慮
  可被遊奉存候、石和ハ難
  用候、横手モ横山届字之
  様ニ御座候、外ニ無御座候、
  且又別紙書付候帰
  納字とくと不仕様ニも
  可被 思召候共山ノ韻
  等ハ通称ニて御座候へ者
  不及反切候、其時ハ
  上ニ加へ申候、文字計ニて
  一字露顕ト申候韻鏡ノ
  習ニ相叶候、是又一
  理ニ御座候、尚又昨日
  被 仰付候趣例証
  相考追而可申上候、
  已上、
    七月廿九日
      荻生惣右衛門
   田中清太夫様
  (奥書)
  「徂徠物子答田中生俗牘真蹟
   不可疑也、想柳候在甲府而田
   中生為侍中惣官之時也、田中生
   後致仕号冨春山人、世人之所普
   知也、以宜珍重為 木邨孔恭識
             (落款) 」

 でも、これだけだと「荻生惣右衛門」(【写真2】)って誰だ? どこかで聞いたことのあるような名前だけど、ということになりかねないかもしれませんね。この名前ですぐピンとくるのはかなり近世史にくわしい方です。この「荻生惣右衛門」というのは、江戸時代中期に活躍した儒学者として有名な荻生徂徠〈おぎゅうそらい〉のことなのです。荻生徂徠って誰だっけ?という方のために、少しだけ説明しておきますと、徂徠は寛文6年(1666)に徳川五代将軍綱吉に仕える医師方庵の次男として江戸で生まれています。元禄9年(1696)に柳沢吉保に儒者として仕え、その政治顧問的な役割をも果たしました。有名な赤穂浪士討ち入り事件では吉保の諮問に答えて、浪士たちの切腹を上申したことで知られています。その門人には太宰春台、服部南郭等がいます。「惣右衛門」というのはその通称だったんですね。
 この書状は、徂徠が同僚の儒者田中清太夫(致仕後、「桐江」、「冨春山人」などと号します)に宛てたものです。ちなみに、この田中清太夫は、徂徠が吉保の命令で甲斐国へ視察旅行に出かけたときに同行し、その紀行詩文集「風流使者記」にもたびたびその名前がみえる人物です。
 そして、この書状の内容はといいますと、徂徠が清太夫に主君柳沢吉保の隠居後の号について相談をよせたものです。日付は7月29日とあるのみで、何年のことかは記されていません。吉保は、将軍綱吉死去の宝永6年(1709)6月3日に家督を嫡男吉里に譲り隠居し保山と号すようになりますので、それ以前のことにまちがいありません。さらに田中清太夫が吉保に仕官するのは元禄12年(1699)からですので、その10年間の間のものだと考えられます。



 吉保の号「保山」は和歌の世界ではよく知られていますが、この書状をみると当初は「保山」の他に「北山」、「條山」という名も候補としてあげられていたようです(【写真3】)。しかも、徂徠は「條山」が最も良いと考えていたことがわかります。この他にも、先祖の「武田」(柳沢氏は武田氏の傍流です)の「武」の一字は吉保が用いることを遠慮しているとか、またゆかりのある横手(柳沢氏の一族で、武川衆のひとつです。吉保の祖父信俊は一時横手家を相続していました)や石和(武田氏の祖は「石和」を名乗っています)の字も考えられたようですが、これらの字は採用されなかったとあります。吉保の号の選定の経過がうかがえてたいへんおもしろい内容です。なにゆえに「條山」が結局採用されずに、「保山」に落ち着いたのか、吉保の好みもあったかと考えられますが、くわしいことまではわかりませんが、興味のつきるところはない書状です。
   

 こうした内容もさることながら、この書状をより名品珍品にふさわしいものにしているのは、奥に付けられている鑑定書です。「木邨孔恭」という署名とともに落款が記されているのがおわかりいただけると思います(【写真4】奥書部分拡大図、【写真5】落款部分拡大)。この人物は「木村蒹葭堂」〈きむらけんかどう〉という号で有名な大坂の町人学者です。「孔恭」〈こうきょう〉というのはその名前です。蒹葭堂は酒造家の家に生まれ、家業のかたわら学芸に打ち込み、絵画から本草学、漢学など幅広く修めています。またコレクターとしての活動も有名です。ちなみに池大雅らに感化を受け文人画を学び、郡山の生んだ異才の人柳里恭〈りゅうりきょう〉の画風を慕っていたといわれています。彼は元文3年(1738)生まれで、徂徠はその10年前享保13年に没していますので、時代的にはもちろん重なっていませんが、先輩学者としての荻生徂徠に深い関心を持っていたでしょうし、またコレクターとしても関心の多いところであったのではないでしょうか。
 その鑑定書には、確かに本書は荻生徂徠の田中宛てものにまちがいない。おそらく田中が甲府城主柳沢吉保の侍官(儒官)として仕えていた時代のものであろう。田中は致仕後「冨春山人」と号したことはよく知られていることである、本書は珍重すべきものであると記されています。
 この鑑定書は、写真ではわかりづらいかもしれませんが、書状の奥に書き記されたものではなく、本紙とは別の紙に記されているものが、書状とともに軸装されているものです。そのため、確実にこの鑑定書がこの書状について書かれたものなのか、という点に問題が残らないわけではありませんが、本紙の書状の筆跡は荻生徂徠のものと考えて良いのではないかと私は思っていました。しかし、正直言いますと残念ながら木村蒹葭堂の筆跡には皆目自信がなく、おもしろい書状だなあと思いつつ公開をためらっていました。しかし、先日木村蒹葭堂を専門に研究している知人(京都橘女子大学・有坂道子氏、有坂さんごめんなさいね、勝手に名前出しちゃいました(*_*))に相談したところ、鑑定書の字は蒹葭堂のものにまちがいはないとお墨付きをいただきましたので、このコーナーで紹介させていただくことにしました。鑑定書にニセモノまでもが出まわると聞く美術品・骨董の世界、なかなかおそろしいものではありますが、疑問持たれた方、いやまちがいないだろうと思われた方いろいろご意見聞かせてくださいね。
 と、ここまで書いてきて、ようやく公約を果たせてほっとしています。次回必ず2ヶ月以内にこのコーナーでみなさんと出会えることを信じましてこのへんで失礼致します。

(本館学芸員 西村幸信 20040706)     

館蔵珍品名品あれこれ
第1回「六義園絵巻」 第2回堯山書「放下放不下」「以弱勝強」
第3回柳里恭「恨別詩」 第4回「荻生徂徠書状」
第5回霊元上皇下賜硯・霊芝 第6回「郡山八景和歌」・「和州郡山八景」
第7回「郡山町名尽」 第8回明治時代の引札
第9回徳川綱吉書「過則改勿憚」 第10回柳沢吉里画「柿本人麻呂像」
第11回スクラップブック 第12回朱印状・領知目録
第13回柳沢吉保和歌懐紙二幅 第14回柳沢吉里画「武田二十四将図」
第15回柳沢信鴻画「山水図」 第16回柳沢保申書「在知人在安民」
第17回「柳澤家中旗指物図」・「旗本備立図」