=第3回=
 こんにちわお久しぶりです。柳沢文庫の学芸員面独斎君こと西村です。  とうとう昨年度は、このコーナーはわずかに2回だけという情けない状況でした。日々仕事に追いまくられ、同僚のお奈美さんにいじめられ気鬱に、というのはウソですが、本当に申しわけありません。今年度は目標2ヶ月に1回のペースで更新したいと決心しております。
  今回、みなさんにご紹介します品は柳里恭の恨別詩(【写真1】)です。実は、とある講演で紹介した作品で、このお話もその時のレジメに手を加えたものなのですが.....。次は新しいネタということで今回ばかりはお許し下さい。

  里恭といえば、知ってる方はよくご存じかもしれませんが、ご存じない方のためにその人物について少し説明させていただきます。柳里恭は畸人伝にも列せられている人物で、文人としてたいへん有名な人物です。「畸人百人一首」(本館所蔵 【写真4】)という嘉永5年(1852)に出版された書籍には、「柳里恭ハ和州郡山候同姓の士なり、性質大器にて文学・武術をはじめ仏学をよく心得、中にも絵をかくことに長ず、(中略)家禄多しといへども是が為に富るといふことなし、(中略)好て書留し随筆を独寝といひ、(中略)人情の道理を書て見るに益あり、(中略)風流を好ミ、人の師となるべき芸十六に及び、又生涯一日も致仕の私なき雄士なり」と紹介されています。
 まさに文武両道に優れた人だったんですね。なかでも、絵画を得意としていたと記されています。文人画の先駆者であり、南画などさまざまな画法の研鑽にも熱心な人で、指導者としても江戸時代の画家として著名な池大雅〈いけのたいが〉を育てています。画人としての彼の作品はそう多くは残されていませんが、筆を使わずに指先に墨をつけて描く指墨図、なかでも竹を描いた指竹図などが有名です。本館でも指竹図一軸を所蔵しています。近いうちにこのコーナーで紹介していきたいと思います。こうした画人としての才能以外にも、「人の師となるべき芸十六に及び」と書かれているように、師匠として人に教えることのできる十六の芸能の道を究めた人でもあったのですね。ちなみに作家の司馬遼太郎は「東洋のレオナルドダヴィンチ」と評しています。本館のあります大和郡山の旧家ではどの家も1点ぐらいは彼の作品がある、ないと旧家とはいえないぐらいの言われ方をするそうです。その反面、残念ながら絵画を中心に偽物もたいへん多いのも事実です。しかも、彼の場合は江戸時代から偽物があったといわれるぐらいですから変な言い方になりますが、たいしたものです。それだけ彼の作品は人気があったということですね。
 このような文人としての里恭の姿はよく知られていますが、もう少しその人物をおいかけておきましょう。「畸人百人一首」のなかに「家禄多し」と記されていますが、彼は柳沢家の筆頭家老の家に生まれた人でした。先ほどから柳里恭とよんでいますが、正しくは柳沢里恭〈やなぎさわ・さととも〉といい、お父さんは江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の側用人として知られる柳沢吉保の治世を助けた保挌〈やすただ〉、お兄さんは大寄合を勤めた保誠〈やすとも〉というまさに柳沢家中のエリートだったのです。里恭自身も、早くから吉保に目をかけられ若くして馬廻り役に取り立てられています。しかし、一度は子供のなかった兄保誠の養子となり、その跡を継ぐことになっていましたが、享保13年(1738)に突然「不行跡」を理由に蟄居閉門を命じられ、兄保誠の家督相続も取り放たれます。後に許されますが、家老の家に生まれながらついに家老にはなれずに大寄合という役職に就いただけでした。彼がなぜ突然エリートコースをはずされたのかいまだ謎のままです。ただ、彼はこうした挫折を味わいながらその生涯に「一日も致仕の私なき」、つまり一日たりとも藩士としての勤めを休むことはなかった人でもあったのです。誠心誠意を常に忘れる事がなかったのではないでしょうか。
 彼は、どちらかといえば芸能の人としての「ひとり寝」にみえるような花柳界での生活など、ややもすれば浮世離れした風流の人としてのみみられがちですが、何事にもまっすぐな人だったのではないかと私は感じています。こうした藩士としての勤めだけではなく、家庭に対しても実直な人だったようです。年表の方をごらんいただきたいのですが、里恭は大和郡山にやってきた翌年享保10年(1725)に家老豊原里亮の妹多世子と結婚しています。22歳で結婚ですから当時としてはまずまず妥当な時期です。この夫人とは大変仲が良かったようです。しかし、多世子夫人は長男安之丞を産んだあと産後の肥立ちが悪かったのでしょうか、安之丞が夭折したわずか2ヶ月後、結婚してわずか2年たらずで亡くなってしまいます。
 今回紹介の「恨別詩」は、愛妻の死を嘆き悲しむ思いを詩に託して詠んだものです。読み下すと 「別れを恨む。蘭閨の香り尚親し。情を結ぶ翠帳の夢自ずから新たなり。台を隔てし一夜杏花の雨。また桃花を打ちて人を愁殺す」となります。
 意味をとりますと、最初に夫人との死別を恨むとありますが、恨むというのは現代語でいう恨むという意味ではありません。死別を惜しみ苦しむぐらいの意味に解釈できます。次に「蘭閨」〈らんけい〉の香りなお親しとありますが、この場合「蘭閨」というのは閨、つまり寝室のことですから、夫婦相睦んだ閨の香りがまだ消えずに生々しく残っているさまをいっています。つづいて「情を結ぶ翠帳の夢自ずから新たなり」とありますが、翠帳は寝室に垂らす緑色の布、テレビの時代劇などでよく殿様が寝ている所に御簾がかかっていたりしますが、それと同じ役割を果たすものです。ここまでの意味を整理しておきますと、妻多世子と過ごした夜のことが今でもよみがえってくる、ぐらいのものでしょうか。
 つづいて「台を隔てし一夜杏花の雨。また桃花を打ちて人を愁殺す」とありますが、ここで「台」といわれているのはおそらく多世子の位牌の前に置かれた香炉台でしょう。おそらくは里恭が香炉台を隔てて妻の位牌と向かい合い、その思い出にひたっていると杏花の雨、これは漢詩などでよく使われる季語ですが、五月の雨が桃花をうって里恭を愁い悩ませる、という場面を描くことができると思います。全体としてみても、わずか二年という短い時間を共にしただけですが、亡き妻多世子への深い愛情に満ちた詩ではないでしょうか。里恭は数多くの作品を残していますが、けっして人に頼まれて絵画や書をかくことはなかったといわれています。彼にとって文芸はまさに自分のため、そして家族のためのものだったのですね。 
〈関連年表〉柳里恭の生涯      

和暦

西暦

記事

元禄16年

1703

江戸において曽祢権太夫保挌の次男として出生。

宝永7年

1710

父保挌隠居、兄保誠大寄合(3000石)、里恭馬廻役(2000石)を受ける。

正徳2年

1712

寄合衆に列せられる。

正徳4年

1714

柳沢吉保没(11月)

享保3年

1718

柳沢帯刀貞貴と名を改める。

享保9年

1724

主君柳沢吉里の国替えにしたがい甲府から大和郡山へ移る(5月)。
この頃より「ひとり寝」執筆
郡山請取完了報告の使者として江戸表へ出発する。

享保10年

1725

「ひとりね」なる。
家老豊原里亮の妹多世子を娶る。

享保12年

1727

兄保誠の養嗣子となり大寄合に列せられる。「里」の一字を拝 領、「里恭」と名乗る(12月)。
長男安之丞出生するも夭折(2月)
妻多世子病没(4月)

享保13年

1728

「不行跡」を理由に蟄居閉門を命じられ、家督相続を取り放たれ、一字拝領も召し上げられる。寄合衆に下り、兄保誠よりの内証合力300石を受け、名を宇佐美九左衛門と改める。間もなく新知500石を与えられ、曽祢図書と再び名を改める。

享保14年

1729

兄保誠没。勝熊家督相続。

享保15年

1730

勝熊の跡、家督を相続。柳沢姓を再び許され、寄合衆筆頭となる。

享保20年

1735

金子180両を借りる(5月)。
この頃、橘由清の娘を娶る。

元文元年

1736

小北稲荷に君公と子孫繁栄の願文を納める。

延享2年

1745

柳沢吉里没(9月)

宝暦3年

1753

大寄合を命じられる。

宝暦6年

1756

運河計画を起こす(翌7年9月挫折)。

宝暦8年

1758

9月5日没。


館蔵珍品名品あれこれ
第1回「六義園絵巻」 第2回堯山書「放下放不下」「以弱勝強」
第3回柳里恭「恨別詩」 第4回「荻生徂徠書状」
第5回霊元上皇下賜硯・霊芝 第6回「郡山八景和歌」・「和州郡山八景」
第7回「郡山町名尽」 第8回明治時代の引札
第9回徳川綱吉書「過則改勿憚」 第10回柳沢吉里画「柿本人麻呂像」
第11回スクラップブック 第12回朱印状・領知目録
第13回柳沢吉保和歌懐紙二幅 第14回柳沢吉里画「武田二十四将図」
第15回柳沢信鴻画「山水図」 第16回柳沢保申書「在知人在安民」
第17回「柳澤家中旗指物図」・「旗本備立図」