
=第2回=
日々の仕事に追われておりまして、前回華々しくスタートしたわりには更新が遅くなりました。今回は、柳沢・郡山藩第3代藩主の堯山〈ぎょうざん〉こと柳沢保光〈やなぎさわやすみつ〉が残した二幅の書をとりあげたいと思います。保光は書道をはじめ、和歌や俳諧あるいは茶道など幅広いジャンルの文芸を修めた‘文人’とよばれる人で、藩主としてもなかなかの名君であったと称えられ、郡山藩中興の祖と言われています。堯山は隠居してからの号で、藩主時代は保光(当初は「安信」〈やすのぶ〉、のちに「保明」〈やすあきら〉と改名し、さらに「保光」と名乗っています)と名乗っています。
私ごとで恐縮ですが、先頃おこなわれました「第9回こおりやま歴史フォーラム」(大和郡山市教育委員会主催・柳沢文庫後援)に報告者の1人として引っ張り出され、こうした堯山と堯山が生まれた時代についての話をしてまいりました。今回とりあげる書(【写真1】)もそのなかで使った史料です。当日の報告を引用しながら少しお話を進めていきたいと思います(当日の詳しい内容などについては後日大和郡山市教育委員会から報告集としてまとめられて刊行されるそうです、ご期待ください)。
【写真1】
堯山一行書
「放下放不下」
この書は「放下か放下せざるか」と読みます。隠居して堯山と名乗ってからのもので、保光の晩年の作品です。大書を好んだといわれる保光らしい雄壮な筆跡の書です。保光と言えば【写真2】のような丸みのついた温雅な感じの特徴ある筆跡が有名ですが、こうした力強い書跡も数多く残しています。「放下」というのは仏教の言葉で、「悟りを開く」という意味の言葉です。「放下放不下」というのは「悟りを開くか否か」という意味に解釈します。
保光という人物は、先ほども言いましたように名君と言われる人物なのですが、若い頃はなかなか無邪気でやんちやな人でした。彼が書いた「消息茶会記」という、茶会のようすを親しい人に知らせた書状が柳沢文庫に十数点残されているのですが、それをみると賭けに負けて予定になかった茶会を開いて相手をもてなしたとか、また朝からの茶会に疲れて昼寝をしたとか、さらには茶会に招かれて月を眺めながらそぞろ歩きして帰った、などとあります(詳しいことは、このコーナーで紹介してまいります)。どうも、かなりくだけた人物だったようです。
また、こうしたお茶だけではなく、保光の藩主時代の公用日記「虚白堂年録」〈きょはくどうねんろく〉を見ますと歌人大名として有名な伊達重村〈だてしげむら〉などの歌会にたびたび招かれていることが見えますし、また能などにも力を入れていたことがわかります。
【写真2】堯山和歌「江春曙」
しかし保光の生きた時代と言えば、全国的な飢饉によって農村が疲弊し、生きていくことに困った百姓たちが一揆に立ち上がり、大変不穏な状況となった時代でした。郡山藩領でも堯山の父信鴻の時代も含めて大きな一揆が起き、多くの百姓をはじめとする庶民の命が失われていった時代だったのです。そのなかで、文芸に力を入れていたことからすると、若い頃の藩主保光は無邪気でやんちゃなところも残り、文芸の才能に恵まれてはいるものの、けっして後世に名君と称えられるような人ではなかったのかもしれません。
その頃保光の行状について父信鴻〈のぶとき〉が烏帽子親(元服の際に烏帽子をかぶせ、烏帽子名を付ける人)である森信門〈もりのぶかど〉に宛てたかたちをとった書状のなかで、大名だから何をしても良いというのか等厳しくいさめているくだりがあります。堯山とて藩主として飢えに困った領民を救うため、粥〈かゆ〉を炊き出して与えるなどの救済策をたびたび実施していますが、父親の目にはまだまだ不十分なものと映っていたのでしょう。
そんな堯山もこうした父信鴻の訓育を受け少しずつ人間性を成熟させていきます。その転機となったのが、慈雲尊者〈じうんそんじゃ〉という高僧との出会いでした。慈雲と保光との出会いについてはいろいろな逸話があり、その一つに不義のあった侍女を保光が手討ちにしたところ、その亡霊に悩まされるようになって困っていたのを慈雲に救ってもらったという俗説もあります。この話自体は事実としては考えることができませんが、私自身は次のように考えたいと思っています。保光が悩まされていたのはむしろ飢饉に倒れた領民たちの霊ではなかったか、藩主として領民たちが飢えに苦しみ、死んでいく状況のなかで無力でしかなかったことに対する懊悩に苦しめられていた保光を救ったのが慈雲だったのではないか、と。
慈雲との出会いのなかで保光は急速に仏教に傾倒していきます。優婆塞、つまり在俗の仏教信者(頭を丸めお寺に入って出家するのではなく、お寺には入らずにふつうのかっこうのまま仏教の信者となった人のことです)として、慈雲の高弟の一人に数えられるまでになっています。
【写真3】
堯山一行書
「以弱勝強」
藩主としてたびかさなる災害や飢饉という大変な危機に直面し、苦悩するなかでその人間性は豊かなものとなっていったのです。それをより大きなものとしたのが慈雲との出会いであっただろうと考えられます。話がようやく元に戻りますが、そうした成長のなかで書き残したのが先ほどみた「放下放不下」という書だったのです。よりその人間性を豊かなものとしつつも、まだ完全に悟りを開けていない自分の境地をこの五文字に託したのではないでしょうか。
若き時代にも保光は歌人として書家としてすぐれた作品を数多く残していますが、隠居して堯山と名乗ったその晩年には仏教の教えを引用した書を好んで残しています。それらの書は、本当に豊かな保光の人間性を感じさせるものが少なくありません。最後にもう一点保光の書を紹介して終わりにしたいと思います。
【写真3】は「以弱勝強」と書かれたもので、「弱をもって強に勝つ」と読みます。もともとは武道の言葉で、相手の力を利用して相手に勝つという意味の言葉ですが、この場合相手を自分のふところに入れてしまって包み込んでしまえるだけの、ふところの広さ、寛容さを持つんだという意味の書と理解できるのではないでしょうか。若くして藩主となり、文芸方面でも大変な才能を持ち自信にみなぎった若き頃の保光とはまた違った深い豊かな人間性をここからも感じます。名君と称えられた保光の姿はこうした晩年のありようから来ているのではないでしょうか。
ここで紹介しました【写真1】、【写真3】は共にそうした成熟した保光の姿をよくあらわしてあまりあるものでしょう。保光も、最初から名君と称えられる人ではなく、むしろダメ藩主で、あるきっかけで一皮むけていったのです。いろんな苦労をしてきたからこそ人間としても藩主としても親しまれる「堯山さん」が生まれたのかもしれませんね。