=第17回=
 みなさん、はじめまして。面独斎さんの跡を継ぎまして本館学芸員となりました真菊斎です。今後ともよろしくお願いします。まだまだ勉強中で未熟なため、本コーナーの再開が遅れましたが、引き続き気長にやっていこうと思います。


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さて、今回は現在特別展「甲斐武田と柳澤氏」で陳列しています「柳澤家中旗指物図」「旗本備立図」をご紹介させていただこうと思います。説明に入る前にまず右の「柳澤吉保寿像」を御覧下さい。「柳澤吉保寿像」は三幅描かれ、柳澤家、一蓮寺(甲府市)、常光寺(韮崎市)が所蔵していますが、右の写真は、常光寺所蔵のものです。元禄16年(1703)に描かれたこの三幅の違いについてはすでに注目されており、賛や服装の違いとともに、前の机に置かれているものの違いにも言及されています。柳澤家所蔵のものには何もなく、一蓮寺所蔵のものが「古今和歌集」、常光寺所蔵のものが右のアップの写真で「軍令」というものです。この「軍令」ですが、写真を並べてありますように、実は柳沢文庫にこの表題が付いて、文面も全く同じ史料があります。三幅の寿像は、吉保が持つ三つの顔を描こうとした意図があったと思われますが、今回は常光寺所蔵の寿像の中で描かれる武士・戦闘者としての吉保にまつわる話です。

 

 「軍令」は、「法性院殿軍令弐拾九箇條悉在家伝、今令増減新定軍令畢、各々当守此旨、以武備守国、以仁心按民、長久不怠可為最要者也」から始まります。意訳すると、「法性院殿(武田信玄)の軍令29箇条が我が家に伝わっている、今増減させて新たに軍令を定めた、各々この旨を守るべし、武備をもって国を守り、仁心をもって民を按じ、長久しく怠らずにすることが大事である」くらいの意味です。突然武田信玄が出てきて面食らいますが、柳澤氏は、武田の庶流でこれに仕える武川衆という有名な武士団の一員でした。武田氏が滅びた後、徳川家臣団に編入されてその後吉保が誕生します。この辺も誤解というかあまり知られていないですね。
 少し話がずれましたが、この「軍令」は宝永3年(1706)正月19日に家老・大寄合・中老・寄合・武者奉行・陣場奉行・番頭など各役職に就く家臣が誰の指揮下で、どのような任務を果たすのかを制定したものです。吉保は、宝永元年12月に川越から甲府に転封を命じられますから、その約1年後ということになります。前置きが長くなりましたが、その中で作成されたものが今回ご紹介する二点「柳澤家中旗指物図」「旗本備立図」です。

 「柳澤家中旗指物図」は今年の特別展以前にも展示している時期があったのですが、この「旗本備立図」とセットで見ないとあまり意味はわかりません。これらの史料は先の軍令をうけて翌4年7月12日に作成された軍事関係史料の内の二点です。まず、甲府藩柳澤氏の軍隊は11の備からなります。江戸時代の軍隊は、備という半ば独立して動く単位の軍団が複数集まって構成されます。柳澤氏であれば、右のような構成を取り、各備の大将は家老等になり、全軍の中心となり本営である旗本備は藩主が指揮をとります。「旗本備立図」はこの陣形を描いたものです。そして「柳澤家中旗指物図」はこの軍隊を構成する家臣たちが身に付ける旗を描いたものになります。
 まず軍団の先頭には、赤の旗を身に付ける弓鉄砲頭に指揮される鉄砲組・弓組が来て、次に鎗奉行に長柄組が来て、その後ろに騎馬隊が来ます。これは当時の合戦が鉄砲・弓・鎗の順で始まり、最後に騎馬の士の戦いで勝敗を決することが想定されていたからです。柳澤氏の家紋である花菱の紋が入った七本の旗が描かれていますが、これが大将がいる備、つまり本営を意味します。また鎗奉行の次に小馬印と軍配者、少し下がった所に大馬印と軍配者が描かれ、その間に「馬所」と描かれていますが、これが藩主の位置する場所です。旗本備には側近や使番(伝令)が多いことや、武者奉行や軍配者、本道(医者)など本営特有の者たちがいること以外は、その他の備と骨格は同じです。
 



 
 



 
 
     
   



 



   
   
         



       
 


   


 
           
     
   



 



   
   
 





 




 





 
 さて、吉保が生きた時代は戦争の可能性がほとんどなくなった時期ですから、なぜこのようなことをせねばならなかったのかと不思議に思われるかもしれません。しかしこうした軍隊の構成を作ることは藩にとっては不可欠でした。まず、武門の棟梁である将軍との関係で、大名は領知を与えられるかわりに人馬を調えいざという時将軍に奉公せねばなりませんでした。いわゆる軍役というもので、これを勤めることは泰平の時代が訪れても幕府と藩の基本的関係でした。また軍事組織が武士の身分秩序、政治組織にそのままなっていきますから、甲府藩の土台としても不可欠でした。つまり軍令から始まるこれら一連の史料群は、柳澤家中が形成されていく過程を物語る史料として非常に大事だということです。
 またこれらの法令を制定することで吉保が構想した柳澤家中がいきなり出来上がるわけではなく、徐々に形づくられていったことを示す史料もあります。吉保は宝永6年に隠居してしまいますから、その跡を継いだ吉里がこの意味で重要になってきます。吉保が思い描いたものを吉里が形にしているといえ、その後の柳澤氏の歴史の中で吉里が占めている位置は考えられているよりもずっと重いといえます。
 吉保・吉里が生きた時代は、戦争もなく平和でのんびりした時代のように思われるかもしれませんが、社会が激変していく中で政治権力というものが非常に大事になってくる難しい時期です。ちょうど今の日本に近いのかもしれません。幕府も藩も試行錯誤を繰り返す中で、吉保が次々と加増を受けたり転封を命じられながら、ほとんど無の状態から家臣団を作り上げて全く混乱なく領内を治めていることは実は驚くべきことだと思います。ファインプレー・スーパープレーがそうは見えない所に底知れなささえ感じてしまいます。荻生徂徠や細井知慎ら当時の第一級の人物たちが彼を慕い仕えていることにもうなずけます。


 吉保が亡くなったのは正徳4年(1714)11月2日ですから、2014年でちょうど300年になります。本人もさすがに300年間理解されないとは想像してなかったと思います。「いいわけがましいのはみっともない」とでも思ったのか、自分の考え・意図したことを史料として残しておらず、断片的な事実からそれを実証していかねばならない状態です。新しい吉保像を作る、最低限作れる環境を整えたい、というちょっとした決意を述べることで今回の珍品・名品あれこれは終わりにさせていただきたいと思います。

(本館学芸員 藤本仁文 20071121)  



館蔵珍品名品あれこれ
第1回「六義園絵巻」 第2回堯山書「放下放不下」「以弱勝強」
第3回柳里恭「恨別詩」 第4回「荻生徂徠書状」
第5回霊元上皇下賜硯・霊芝 第6回「郡山八景和歌」・「和州郡山八景」
第7回「郡山町名尽」 第8回明治時代の引札
第9回徳川綱吉書「過則改勿憚」 第10回柳沢吉里画「柿本人麻呂像」
第11回スクラップブック 第12回朱印状・領知目録
第13回柳沢吉保和歌懐紙二幅 第14回柳沢吉里画「武田二十四将図」
第15回柳沢信鴻画「山水図」 第16回柳沢保申書「在知人在安民」
第17回「柳澤家中旗指物図」・「旗本備立図」