=第16回=
第16回の「珍品名品あれこれ」は6月に急逝いたしました面独斎の原稿を基にしています。


  みなさんこんにちわ、おなじみの面独斎こと柳沢文庫学芸員の西村でございます。11月だというのに外はうららかで暖かいですね。でも、文庫の中は寒い〜と、みんなが震えております。面独斎めにはちっともそんな風に思えないのですが。

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 さて、今回は昨春(2005年度)の企画展「最後の郡山藩主柳沢保申」で陳列しました柳沢保申の書「在知人在安民」(【写真1】)を紹介させていただきたいと思います。この書には、「乙丑試毫 保申」と署名があり、慶応元年(1865)に書かれたものであることがわかります。この時、保申は19歳でした。一本気で、信念の人だったといわれる保申らしい若さあふれる力強い筆跡で書き上げられています。けっして達筆で味がある筆跡とはいえないかもしれませんが(そんなこといって大丈夫なのでしょうか?)、何か才気というか、私のような凡人とは違うものを感じてしまうのは私だけでしょうか?
 それはさておき、保申が好んで揮毫したこの「在知人在安民」は、「人を知ること在りて、民の安らぎ在り」と読むことができます。「人を知る」とありますが、この場合の「人」は領民たちのことであり、領民のことを良く知ることで、初めて民の安寧を得ることができるという意味にとれるのではないでしょうか。つまり、藩主として御殿のなかで民の苦しみも知らずに安穏と暮らしているだけでは、領民が安心して暮らせるような政治はおこなえない、民のことを良く知ってこそ、良い政治はおこなえるものであろう、という思いを保申はこの六文字に込めたのだと思います。
 保申は版籍奉還後、藩知事として藩政改革を進めるなかで全藩士に対して協力を呼びかける演達書を示しています。そのなかで、自分は不幸にして「門閥家」(保申の場合は大名家)に生まれて世の中の艱難辛苦も知らずに育ってきたと述べています。自分の育ちというものがとかく民衆とかけ離れたところにあり、その自分の境遇に常に煩悶しながら、藩主として、そして藩知事として領民とともに歩もうとしていたのではないでしょうか。その心意気をこの書なかに感じることができるように思えます。
 保申は、本書以外にもう一幅、この「在知人在安民」を揮毫しています。こちらは、柳沢家所蔵のもので館蔵品ではありませんが、あわせて紹介させていただきます。【写真2】がそれです。こちらは先ほどのような一行書(六文字を一行で書き下ろしたもの)ではなく、二行書となっています。こちらの方は、状態などから考えて【写真1】よりもう少し後の明治時代になってからの書だと考えられます。筆跡も、19歳の頃よりも落ち着いた整ったものになっています。
 藩主あるいは藩知事(廃藩後に一時的に置かれた藩主に相当する役職です)として公職にあった時代も、また公職をおりて一私人として郡山の地場産業や教育の振興に尽力していた時代も、片時もこの六文字を忘れることはなかったんですね。
 ちなみに、この「在知人在安民」という六文字を書き残していたのは保申だけではありません。その祖父である第四代藩主の保泰もまた「在知人在安民」の書を書き残しています。初代吉里、第二代伊信(信鴻)、第三代保光がこの六文字を書いた書跡は残されてはいませんが、この六文字は藩主としての心構えとして、代々受け継がれたものではなかったかと考えるところです。柳沢・郡山藩の治世のなかで他領と比べて比較的百姓一揆が起きることが少なかったゆえんをここにうかがうことができるのではないでしょうか。
 と、こうまとめたところで話しは終わりそうなのですが、それでは終わりませんでした。実際のところ前記の春季企画展で保申のこの書を紹介した際には、こうしたまとめ方しかできませんでした。その後も、いったいこの「在知人在安民」の六文字はどこからきた言葉なのだろうかという疑問が頭を離れませんでした。
 そうしたなか昨秋開催しました特別展「柳沢吉保と荻生徂徠」を準備しているなかで、拙い頭を駆使して、学生時代以来もっとも苦手とする漢文で書かれた徂徠の著作を読んでいますと(漢文がよく読めると勘違いされて変な依頼が来ると困りますので、白状しておきますと、徂徠研究の専門家の方がきちんと読み下して、頭注まで付けてくださった本を片手に読みました.....)、なんとそのなかに「在知人在安民」の六文字があったのです。見つけたときは本当に感激しました。その著作は「弁名」というものです。その上巻の一頁にその六文字はありました。画質の関係でわかりにくいかもしれませんが、【写真3】のなかに赤丸印で傍点をつけたところです。
 徂徠は、お父さんが将軍徳川綱吉の怒りにふれて上総国(千葉県)の本能村というところに流罪になってしまった関係で、13歳から26歳までの13年間農村暮らしの日々を送ります。当初、徂徠は幕府儒者である林家に入門し、順風満帆なスタートを切ったのですが、この間つくべき師を失い、独学で勉強せざるをえなくなるなどたいへんな苦労をします。しかし、この経験は徂徠の思想に大きな影響を与えたといわれています。ちょうどこの頃の農村は貧富の格差がどんどん開いてくる時代でした。新田開発で地主として急成長していく人がいたかと思えば、その一方で耕すべき田畑を失い、小作人になるかあるいはまた村を離れて、町で日雇い労働などをして生きていくしかありませんでした。そのありさまを目の当たりにして、徂徠は国を治める領主たるものこそ農村暮らしをして、この実態、民の苦しみをよく知るべきである、それで初めて民が安心して暮らせる政治ができると考えるようになりました。彼は別の著作でも、領主が農村暮らしを一度は経験すべきであるということを説いています。「弁名」で書かれた「在知人在安民」の六文字はまさに、そのことを言い表した言葉だったんですね。徂徠が「弁名」を著したのは柳沢藩邸を離れ、儒者の勤めも非常勤となってからですが、その教えは柳沢・郡山藩藩校惣稽古所初代総督となった養子金谷を通して、この後も柳沢家のなかに受け継がれていきました。
 保申やその祖父保泰もまた、そうした徂徠の思想の影響を強く受けていたんですね。まさに柳沢家の家訓とでもいうべき六文字だったのかもしれません。これで、保申ばかりではなく、祖父の保泰までもが同じ文言を揮毫していたのかという謎が解けました。先ほども申しましたように柳沢歴代の治世がよく領内に百姓一揆が少なかったというのも、この徂徠の教えが柳沢家のなかに活きていたからなのでしょうね。
 柳沢吉保に仕え、江戸時代中期に活躍した荻生徂徠と幕末・明治維新の時代を生きた柳沢保申、この二人が生きた時代は150年ほども違いがありますが、意外な(当然なのかもしれませんが)ところでつながっていたんですね。人の命はたかだか数十年あまりのものですが、その命を終えた後もこのように長く受け継がれていく言葉を残していけるような人間に面独斎もなりたいものです。いやあ、とても無理かなあと思いつつ今回の館蔵名品珍品あれこれは終わりとさせていただきたいと思いまする。

(本館学芸員 西村幸信 20061105)  



館蔵珍品名品あれこれ
第1回「六義園絵巻」 第2回堯山書「放下放不下」「以弱勝強」
第3回柳里恭「恨別詩」 第4回「荻生徂徠書状」
第5回霊元上皇下賜硯・霊芝 第6回「郡山八景和歌」・「和州郡山八景」
第7回「郡山町名尽」 第8回明治時代の引札
第9回徳川綱吉書「過則改勿憚」 第10回柳沢吉里画「柿本人麻呂像」
第11回スクラップブック 第12回朱印状・領知目録
第13回柳沢吉保和歌懐紙二幅 第14回柳沢吉里画「武田二十四将図」
第15回柳沢信鴻画「山水図」 第16回柳沢保申書「在知人在安民」
第17回「柳澤家中旗指物図」・「旗本備立図」