=第15回=
第15回の「珍品名品あれこれ」は6月に急逝いたしました面独斎の原稿を基にしています。

 みなさん、こんにちわおなじみの面独斎こと西村でございます。毎日暑いですねえ。面独斎は贅肉というもうひとつの着物をかぶっておりますので汗っかきでかないません。ガンガンに冷房を入れたいところですが、それでは寒すぎるとお奈美さんに叱られるのです.....。

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 まあ、よけいな話しはさておき、15回目というこれまたひとつの節目にあたる今回は、柳沢文庫発売の絵葉書シリーズのなかにもあります柳沢信鴻の「山水図」(【写真1】)をご紹介させていただきたいと思います。
 「山水図」というのは、中国の道教の教えにもとづいた理想郷の世界を描いたもので、けつして現実の風景を描いたものではありません。しかし、もともと中国がルーツの絵画ですので、その風景は中国の奥深い山里のイメージです。画面中央やや下に木々に埋もれた小さな庵がみえますが、ここに高士(脱俗した人格高潔な人という意味です。山に隠棲している仙人のような人というイメージで考えてください)が暮らしているという構図になっています。こうした険しい山、庵、高士の三つはこうした山水図に欠かせない要素なのです。こうした山水図は室町時代に活躍した有名な雪舟が得意としたもので、数多くのすぐれた「山水図」を残しています。その後日本でも、数多くの絵師が「山水図」を画題としています。当初は、こうした水墨淡彩、つまり墨の濃淡だけで描き出すものだけではなく、着色のものも少なくありませんでしたが、やがて水墨画の技法で描かれるものになっていきます。
 さて、「山水図」そのものの説明はこのぐらいにしておきまして、信鴻の「山水図」の説明に入りたいと思います。ちょうど画面の左手に「天明乙巳仲冬 桑門香山写」と署名があるのがおわかりいただけると思います(画像が粗いので見にくいかもしれませんが....)。「天明乙巳」といいますと、ちょうど天明5年(1785)にあたります。そして「桑門香山」とあるのが、柳沢信鴻のことです。そんなことぐらい知っとるわいと怒られるかもしれませんが、「桑門」というのは出家した人のことです。信鴻は、安永2年(1773)に家督を嫡子の保光に譲り隠居し、さらに天明5年(1786)暮れに剃髪して「香山」と号すようになります。ですから、この絵は剃髪して間もない頃のものなんですね。信鴻は寛政4年(1792)に亡くなりますので、まさにその最晩年の作だったわけです。
 信鴻といえば、まだ伊信という名前で藩主だった時代は独特の濃厚な色彩による花鳥図を得意の画題として数多くの作品を残しています。くわしくは別の機会に紹介させていただきたいと思いますが画像だけあげておきますと【写真2 柳沢伊信画「牡丹金鶏図」】のような感じの作品です。とても同じ絵師の手によるものとは思えないほど趣の違うものです。絵師としての信鴻の幅の広さを感じるとともに、若い時代の艶やかな花鳥図から晩年の水墨画へと何か一人の人間の心境の変化をも感じることができるのではないでしょうか。
 ちなみに信鴻は隠居後、祖父吉保が造らせた名園六義園(【写真3】)のある駒込(東京都文京区)の下屋敷に隠棲します。その日々の生活のなかで、彼が書き残した「宴遊日記」や「松鶴日記」によりますと、時には趣味の芝居見物などに出かけますが、よく園内をめぐり、四季の草花を摘んだり、園内の情景を俳諧や和歌に詠むのを好んだようです。中国の風景を思わせる「山水画」の情景と、六義園の情景を短絡的に結びつけることはできませんが、信鴻の心のなかでは祖父吉保が和歌の理想郷として造らせた六義園と「山水図」に描かれた道教の理想郷をだぶらせるものがあったのではないでしょうか。


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 と、このあたりで今回は短めですが館蔵名品珍品あれこれ終わりにさせていただきたいと思います。鮮明な信鴻の「山水図」の写真が欲しい、と思われた方はぜひ「絵葉書セット」をお買い求めくださいませ。

(本館学芸員 西村幸信 20060810)  


館蔵珍品名品あれこれ
第1回 「六義園絵巻」 第2回堯山書「放下放不下」「以弱勝強」
第3回柳里恭「恨別詩」 第4回「荻生徂徠書状」
第5回霊元上皇下賜硯・霊芝 第6回「郡山八景和歌」・「和州郡山八景」
第7回「郡山町名尽」 第8回明治時代の引札
第9回徳川綱吉書「過則改勿憚」 第10回柳沢吉里画「柿本人麻呂像」
第11回スクラップブック 第12回朱印状・領知目録
第13回柳沢吉保和歌懐紙二幅 第14回柳沢吉里画「武田二十四将図」
第15回柳沢信鴻画「山水図」 第16回柳沢保申書「在知人在安民」
第17回「柳澤家中旗指物図」・「旗本備立図」