=第12回=
 みなさんこんにちわ、またまた柳沢文庫学芸員の面独斎こと西村でございます。廊下は極寒、事務室は酷暑という劣悪環境の中でがんばっておりまする。かなり良い感じで本コーナーの更新もできていると思いませんか? 館蔵史料の数からいえばまだまだゴールにはほど遠い回数ですが、面独斎の体の続く限りがんばるのみでございます。

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 さてさて、今回は宝永元年(1704)に柳沢吉保が長年の忠勤を認められて、3万9千石を加増され、甲府15万石あまりを与えられたときの朱印状と領知目録を紹介させていただきたいと思います。
 柳沢吉保についてはもうくどくどと説明を付け加えさせていただくこともないですよね。江戸幕府第五代将軍徳川綱吉に側用人として仕えて、最後は席次が大老格、つまり老中の上まで進められ、たいへん権勢をふるったといわれている人です。ちまたでは、賄賂の権化、綱吉にこびへつらった大悪人のようにいう人もいます。どちらかといえばダーティーなイメージで知られてますよね。でも、そんな人じゃなかったことは本コーナーをここまでみていただいた方ならおわかりいただけると思います。
 その吉保は、先ほども申しましたように宝永元年12月に川越から甲府に移され、甲斐国と駿河国のうちで15万1千石あまりを与えられ甲府城主となっています。さらに翌2年2月には駿河領を返上し、あらためて甲斐三郡を賜っています。今回紹介しますのは、この際の朱印状と領知目録です。
 まず 【写真1】の朱印状の文面をあげます。

 (包紙上書)
  「       甲斐少将殿 」

  甲斐国者要枢之地而一門之
  歴々雖領来、依真忠之勤、今度
  山梨・八代・巨摩之三郡一円〈目録在/別紙〉
  充行之訖、為先祖之旧地、永可
  令領知之状、如件、
    宝永二年四月廿九日(朱印)

 差し出しのところに捺されている朱印はもちろん将軍綱吉のものです。また本紙に宛先は記されていませんが、その包紙(文書を包んでいる、今でいえば封筒のようなものです)の上書に宛先として「甲斐少将」とありますが、これが当時従四位下少将の官位をもっていた柳沢吉保のことです。
 さてさて、その内容ですが、そこには「甲斐国は『要枢之地』であり、『一門歴々』が領国としてきた地であるが、このたび『真忠之勤』めにより与える。そなたの『先祖之旧地』であり、永く領知すべし」と書き記されています。この言葉どおり、甲斐国は江戸防衛の要衝の地であり、一部をのぞいて代々徳川家一門が置かれてきました。吉保の前に城主であったのは将軍綱吉の継嗣(跡継ぎ)となった徳川綱重(六代将軍家宣)です。それだけに松平姓を許され、御家門(徳川一族)の待遇を与えられたとはいえ吉保の受封(領地を与えられること)は異例のものであったといえます。
 ちなみに「先祖之旧地」とありますが、柳沢氏のルーツをたどると甲斐武田源氏にいきつきます。かの有名な武田信玄と同じ流れなんですね。そして、今は北杜市になっています武川という釜無川沿いの村のひとつが柳沢氏の出身地です(このあたりのくだりについてはぜひ「面独斎くんの甲斐国旅日記」をご覧ください)。この武川のなかにいまも柳沢という地名があるのですが、そこが柳沢氏ルーツの地です。柳沢氏はもともとこうした武川地域を地盤にしていた武川衆という土豪の一員でした。だから甲斐国は柳沢氏にとってまさに先祖代々の地(「先祖之旧地」)なのです。
 話しがちょっとそれましたが、この朱印状の文面のうちに「真忠之勤」とありますが、この箇所は初め原案を作成した幕府の儒学者林大学頭は「政務勤労」としていました。それを綱吉自ら筆をとって「真忠之勤」と書き改めたと吉保時代の柳沢家公用記録「楽只堂年録」にはみえます。将軍が公式文書にわざわざこのような訂正を加えることはそうあることではありません。
 この朱印状はそれ以外の点でも異例ずくめです。ふつうこうした朱印状は、そなたにどこそこの土地何万石を与えるというようなありきたりの文言が書かれているだけです。早い話が、宛先の名前と、与えられる土地とその石高が違うだけといってもさしつかえありません。それをわざわざ、このような文面にしたあたりに、綱吉の吉保に対する深い信頼のほどがうかがえます。
 さらに、もうひとつこの朱印状の特異な点をあげておきますと、こうしたものに絶対に欠かせないはずの与えられる領地の石高が書かれていません。江戸時代は土地の広さを今のように何平方メートルとかいうかたちではなく、そこから収穫できるお米の分量で表しますので、こういう場合何万石と表記されるのですが、ここにはそれがないのです。これについては「柳沢家系譜」によると旧冬加増してまもないので、時期をまってあらためて石高を書き入れることを綱吉が約束したものであると記されています。残念ながらこれ以上のことを明らかにしてくれる史料はみられません。
 そこで、今度は【写真2】の領知目録をみておきたいと思います。まず文面の釈文をあげておきましょう。

   目録
  甲斐国
   山梨郡一円   百四拾六箇村
    高六万八千拾四石壱斗壱升六合
   八代郡一円   百七拾九箇村
    高五万九千五百三拾弐石四斗五升四合四夕
   巨摩郡一円   三百三拾六箇村
    高拾万千弐百拾九石弐斗九升五合
  都合拾五万石千弐百八拾八石七斗三升七合
    外
   七万七千四百七拾七石壱斗弐升八合四夕 内高
  右今度郡村之帳面相改、及
  高聞、所被成下 御朱印也、
  仍執達如件、
             本多伯耆守
   宝永二年四月廿九日 正永(花押)
             稲葉丹後守
                正通(花押)
             秋元但馬守
                喬朝(花押)
             小笠原佐渡守
                長重(花押)
             土屋相模守
                政直(花押)

松平美濃守殿
 領知目録というのは将軍が発給した朱印状を受けて、具体的にどこそこでいくらいくらの領地を与えるという目録です。朱印状は将軍の名前で出されますが、こちらは老中(江戸幕府の最高首脳たちです)の連名で出されます。ここに名前のあがっている土屋政直他4名の人たちが老中です。ちなみに土屋政直が老中首座(今の総理大臣のようなもの)です。こうした文書は、一番えらい人が最後に署名します。そして、宛先の「松平美濃守」が柳沢吉保のことです。吉保は、従四位下少将兼美濃守だったためこう表記されているのです。
 この領知目録でとくに注目したいのが傍線部のところです。先ほども言いましたようにこの時吉保には甲斐国三郡で十五万石あまりが与えられました。しかし、それだけではなかったのです。「七万七千四百七拾七石壱斗弐升八合四夕」が「内高」としてそれ以外に付加されているのです。この「内高」というのは表高(公表されている石高)以外に、実際にその土地から収穫が見込まれている収穫高のことです。つまり、表向きは吉保に十五万石あまりが与えられたことになっているのですが、実際はそれプラス七万石あまり、つまり合計二十二万石あまりがこの時に与えられたということになるのです。
 こうした石高はリアルタイムのものではありません。その前におこなわれた検地(土地の収穫高などの調査)で確定されたものです。天領(幕府領)ですと、宝永二年の前では大がかりなものとしては延宝年間に検地がおこなわれていますので、その際の数値です。江戸時代の農業技術の進歩はめざましくたとえ数年でも生産量の増加は見込まれますから、額面以上の石高があるというのはけっしてないことではありません。しかし、いくらなんでも額面と七万石あまりも違うというのはありえる話しではありません。むしろ、あまりの加増(領地を増やすこと)は問題があるので、表向きは十五万石にとどめて、それ以外に七万石も与えたというのが実際のところではないでしょうか。いずれにしても、このような内々のものまで領知目録という江戸幕府が発行する公式文書に記載されることは異例中の異例といわざるをえないものです。「内高」の記載のある領知目録はおそらくこの一通以外には存在しないでしょう。
 先の朱印状といい、この領知目録といい、吉保のときの受封はまさに異例ずくめのものでした。それだけに、吉保の立身出世がいろいろと陰口をたたかれることになるのかもしれませんね。最初にも言いましたが、こうした立身出世をとげた吉保の評価について、ここではとかく申しません。読者のみなさんの評価にお任せしたいと思います。
 しかし、いずれにせよ「先祖之旧地」を与えられ、一族の墳墓の地に錦を飾った吉保の胸中は喜びにあふれんばかりだったと考えられます。徳川家家臣団として多くの合戦で功績をあげながら報いられることの少なかったという柳沢氏と同じ武川衆にとっても感慨深いものだったのではないでしょうか。

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 今回の館蔵珍品名品あれこれはいかがでしたでしょうか。史料には、たとえ短い文面であったとしても本当にいろいろな意味が詰まっているんですね。それぞれの史料の後ろにある歴史を読んでいくのは本当に楽しいですよ。みなさんもがんばって史料の読解に挑戦してみませんか? 何も、有名人が書いたものとかじゃなくてもいいんです。どんな史料にもいっぱいいっぱい歴史がつまってますよ。もし、史料を見たくなったら柳沢文庫だけじゃなく、身近にある博物館、資料館を訪ねてみてください。きっといろいろ教えてもらえると思いますよ。
 ではでは今回はこのへんで失礼します。

(本館学芸員 西村幸信 20060215)  


館蔵珍品名品あれこれ
第1回「六義園絵巻」 第2回堯山書「放下放不下」「以弱勝強」
第3回柳里恭「恨別詩」 第4回「荻生徂徠書状」
第5回霊元上皇下賜硯・霊芝 第6回「郡山八景和歌」・「和州郡山八景」
第7回「郡山町名尽」 第8回明治時代の引札
第9回徳川綱吉書「過則改勿憚」 第10回柳沢吉里画「柿本人麻呂像」
第11回スクラップブック 第12回朱印状・領知目録
第13回柳沢吉保和歌懐紙二幅 第14回柳沢吉里画「武田二十四将図」
第15回柳沢信鴻画「山水図」 第16回柳沢保申書「在知人在安民」
第17回「柳澤家中旗指物図」・「旗本備立図」