
=第11回=
皆様、新年あけましておめでとうございます。面独斎こと柳沢文庫の西村でございます。昨年はいろいろお世話になりました。今年もどうかよろしくお願い致しまする。<(_ _)>
昨年は面独斎めもいろいろありまして、なにかと皆様方や他の職員に迷惑をかけました。なんとか今年は平穏無事に過ごしたいものでございまする。
* * * * * * *
さてさて、新年第1回目、そして本コーナー11回目となります今回は本館が所蔵しております珍品の部類に入る史料を紹介させていただきたいと思います。その史料と申しますは新聞記事のスクラップブックでございます。えっ?こら!いったい何が珍品やねんと、おっしゃいますか? まあ、お怒りにならずに紹介の方を読み進めてくださいませ。
その新聞記事と申しますのは、昭和初期の郡山金魚についての記事です。いずれも、郡山の金魚に関するものです。残念ながらどなたがスクラップしたものなのかはわかりません。可能性としては郡山の豆腐町に暮らしたコレクターあるいは大和地域史の研究者として有名な故水木要太郎氏がスクラップしたものが、他のコレクションとともに柳沢文庫に寄贈されたというのが一番考えられるかなあと思っています。要太郎氏のスクラップは他にもたくさん文庫に寄贈されています。仏教や美術、骨董などはもちろん郷土料理などまで本当にいろいろなジャンルをスクラップされています。何でも興味を持っていた人だったんですね。
ただ、残念ながらこの方のスクラップはほとんど新聞紙名が記録されていません。したがいまして、今回紹介する4点も掲載紙は不明です。人のせいにしてないで、おまえがちゃんと調べたらわかるだろう、というお怒りの声が聞こえてまいりそうですね。確かにそうです。必ず調べようと思っているのですが.....、なかなか時間がなくて。
いやあまあその、では記事の内容を紹介していきましょう。これらの記事はいずれも昭和4年(1929)の5月から6月にかけてのものです。この年、郡山の金魚業界は空前の好景気に沸いていました。郡山金魚といっても最初は江戸時代の武士の内職から始まり、明治維新後は農家などの副業としておこなわれていたぐらいでそう大がかりなものではありませんでした。
それを郡山最後の藩主柳沢保申〈やなぎさわ・やすのぶ、【写真1】〉が柳沢養魚場をつくり、本格的な品種改良に乗り出し、地場産業のひとつとして育成し始めてから、飛躍をとげていったのです。さらに、保申の跡を継いだ保恵〈やすとし、【写真2】保恵が堀ノ側柳沢邸内に造らせた金魚養魚場〉は郡山金魚の海外への販路開拓に力を注ぎ(【写真3】海外へ輸出される金魚)、その尽力もあって郡山金魚の名は世界的にも広まったといいます。こうした保恵の努力が実を結んだのが、昭和4年の金魚養殖業界の好景気でした。
さて、話を史料紹介に戻しましょう。【写真4】はまさにその好景気のもようを伝えたものです。「売れも売れたり金魚一千二百万尾」と景気の良い見出しが踊っています。このなかには「都会の夏の慰みに必要となる時季に面して郡山の金魚池にはほとんど赤い姿は見られぬほどに品払底を極めた、近年にないすばらしき左程大きくならぬ先きにドシドシ売れる見込みで当業者は狂喜し今秋の輸出期を待ちこがれてゐる」とあります。この一文からも好景気のほどがよくうかがえるのではないでしょうか。
そして【写真5】のなかの5月14日付の記事(右上)は、金魚ではありませんが、アメリカに田螺〈タニシ〉を輸出して、成功を収めたという記事です。田螺ひとつが10銭ほどで売れたとありますから、なかなかの人気だったようです。食用ではなく、金魚の水槽の掃除用といいますか、金魚の糞などを分解する役割を田螺に期待したものだったようです。それがこのくらい売れるのですから当時アメリカで観賞用の金魚がいかに人気が高かったかがわかります。実は、私はこの記事を見たときにアメリカ人が田螺を食べていたのだと早合点してしまいました....。
まあこの田螺はよいのですが、この記事の左斜め下の記事をご覧ください。「米国に好得意を見つけた郡山」という見出しで、金魚や田螺の成功に気をよくした郡山の人たちが「今度は蛭と縞泥鰌輸出」と書かれています。蛭〈ヒル〉と縞泥鰌〈しまどじょう〉、泥鰌は食用かなあと食いしん坊の面独斎は考えてしまったのですが、蛭はいったい何に使うものとして輸出しようとしたんでしょうね? 肩こりを改善するのに蛭に血を吸わせたという話をどこかの本で読んだ気がするのですが......。まさか蛭を食べたりはしないでしょうし。ナゾです。何の用途で考えられたものかは書かれていませんのでわかりません。郡山の人たちの商魂のたくましさをかいまみた気がします。
次ぎに【写真6】と【写真7】に話を進めたいと思います。この二つは同じ話題をとりあげたものです。その話題といいますのは、郡山金魚養殖業界成功の立役者のひとりとして先ほど名前をあげました柳沢保恵が販売のため選別された金魚のうち、不良品としてはねられた「駄物」をあまりにももったいないということで、乾物にしてはどうかと発案したというものです。乾物というものの、どうもたいへん苦心したようで、そのまま天日で干すとすぐ腐ってくさくなってしまい駄目だということで、生駒農学校製の小型簡易乾燥機でようやく仕上げたとあります。できあがった乾物は東京の保恵のもとへ送られて食用に供されたそうですが、いったいどのようなお味だったのでしょうね。この記事を読みますと稚魚を天ぷらにしてみたりと、いろいろ試されたようです。しかし、現在郡山に金魚料理が伝わっていないところをみるとどうも金魚を食用にするという試みはあまりうまくいかなかったのではないでしょうか。
* * * * * * *
以上、新年第1回目となる館蔵珍品名品あれこれでした。いかがでしたでしょうか。新年1回目というわりには、派手さというか華やかさがまったくないねとお奈美さんに一言で切り捨てられてしまいましたが......。このスクラップブックにはこれ以外にもいろいろな記事がスクラップされています。新聞記事というものはスクラップして残していくのは簡単そうでなかなか、残せるものではありません。奈良の県立図書情報館などでも古い新聞は残されていないものは少なくありません。その意味で、こうしたスクラップブックも貴重な歴史資料です。みなさんも、興味のある記事などを切り抜いてスクラップブックを作られてはいかがでしょうか? 後々に貴重な歴史資料だということで重宝されるかもしれませんよ。
(本館学芸員 西村幸信 20060106)