
=第10回=
こんにちわ、柳沢文庫の面独斎こと西村でございます。いつもの公約破りを猛省いたしまして、今回は早い目の更新となりました(早すぎるという話しもありますが)。みなさまのおかげをもちまして「館蔵珍品名品あれこれ」も今回で10回という一区切りを迎えることができました。ありがとうございます。横で、いつもいつも気まぐれな更新に付き合ってあげた私のおかげよ、とお奈美さんが申しております。私はホームページの更新は自分ではとてもできませんので、いつもお奈美さん任せです。お奈美さんにも感謝しておりまする。
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さて、今回は本館が所蔵する四幅の柳沢吉里画柿本人麻呂像を紹介させていただきたいと思います。柳沢吉里って誰だ?とおっしゃる方もおられるかもしれませんので、吉里について少し説明させていただきたいと思います。
吉里は、かの有名な柳沢吉保の長男です。宝永6年(1709)に父吉保隠居をうけて家督を相続し、甲府藩主となりました。そして享保9年(1724)に大和郡山に国替となり、柳沢・郡山藩初代藩主となっています。文人として知られた人物で、和歌、絵画をはじめとして俳諧、連歌などに至るまで幅広い文芸を嗜みました。なかでも、和歌は霊元上皇(江戸時代中期を代表する歌人)の加点(添削、歌人としてたいへん栄誉なこと)を賜るなど京都でも歌人としてその名は知られていました。また、絵画も生前に「画人伝」に列せられるほどで、その腕前は殿様芸の域をはるかにこえるものであったといわれています。
そうした画人としても歌人としてもすぐれた人であった吉里が描いたのがここでご紹介します柿本人麻呂像です。えっ? 柳沢吉里はわかつたけれども、柿本人麻呂は誰だ? とおっしゃいますか? はいはい、柿本人麻呂は「万葉集」の代表的歌人として有名で、歌聖とまでよばれた人です。ただ生没年を含めてくわしいことはよくわからない謎の多い人でもあります。その生涯に三百数十首の歌を詠んだとされますが、人麻呂に仮託されたもの(詠み手を人麻呂とするもの、実際は別の人物が詠んでいます)も少なくないといわれています。また「古今和歌集」の序文では、「歌仙」として称えられています。
歌人である吉里にとって、まさに柿本人麻呂は生涯の目標、あこがれの存在だったと思いますので、彼のいろいろな思いがこの絵にはつまっているような気がします。
くどくど述べるのはこのくらいにしまして、四幅の人麻呂像を紹介しておきたいと思います。【写真1】から【写真4】までがそれぞれの全景です。このうち、【写真1】から【写真3】がもともと柳沢家に伝来し、昭和35年(1960)の財団創立にあたって本館に移管されたものです。それに対して【写真4】は現在も大和郡山市域に居住されている郡山藩の家老も勤めたお宅の蔵から2004年に発見されたものです。これまで吉里の人麻呂像は三幅だけと考えられてきただけに、この掛け軸を見つけたときは本当にびっくりしました。ですから、着色のものが二幅、淡彩が一幅、墨絵が一幅の合計四幅となります。
同じ吉里が描いた人麻呂像ですが、【写真1】から【写真4】の人麻呂像の拡大写真をみていただければおわかりのように、それぞれにスタイルや表情などが違って描かれています。たとえば着色のもの2点は老いながらもなにかかくしゃくとした感じのものであるのに対して、淡彩のものは脇息に寄りかかり老い疲れたような感じさえ受けるものです。一方、墨絵ものはひょうきんな感じの人麻呂像となり、それぞれに独特の味わいのある老歌聖の風貌をもった人麻呂像が描き出されています。いずれとも、狩野派に絵画を学び人物画を得意とした吉里らしさがよく表れています。ちなみに、こうした人麻呂像といえば、着色のもののように烏帽子をかぶり、左手に紙、右手に筆を持った直衣姿のスタイルが典型的なものとされています。淡彩や墨絵のものは手に何も持っておらず、変形パターンのものと考えられます。
この人麻呂像の頭の上には、四幅とも賛が添えられています。この賛は「ほのぼのと明石のうらの朝霧にしまかくれ行く舟をしぞ思ふ」という古今集巻九にも収められている人麻呂の代表的な歌です。淡彩のものと墨絵のものの賛は変体仮名で記されておりますが、着色のものは万葉仮名(漢字の音を用いた表音文字のことです。漢字本来の意味とは関係なく、その音で日本語を表しています)で記されています。それぞれの賛を紹介しておきますと次のとおりです。字体はそれぞれに違いますが内容はすべて同じものです
【写真1】
保農保乃登明石能(ほのほのと明石の)
宇良農朝霧仁志満(うらの朝霧にしま)
賀久礼行舟遠之曽(かくれゆく舟をしそ)
於毛婦 (おもふ)
【写真2】 ※ゝゝは大返しを表しています(以下同じ)。
ほのゝゝとあかしの
うらの朝霧にしま
かくれゆく舟をしそ
おもふ
【写真3】
ほのゝゝと
あかしの浦の
朝霧に
嶋かくれゆく舟を
しそ
思ふ
【写真4】
ほのゝゝとあかしの
うらの朝きりにしま
かくれ行舟をしそ
おもふ
ちなみに、これらの賛はすべて吉里の自筆と考えられてきました。【写真2】の賛については霊元上皇の筆跡にも良く似ているという指摘もありましたが、実は最近ふとしたことから風早実種というお公家さんの筆であることがわかりました。なぜわかったかと申しますと、正式な所蔵品目録(『郡山藩関係古文書等調査目録』)の編纂のため、法量を未計測だった掛け軸をお奈美さんとともに計っていました。私、最近呼吸器をやられまして咳がひどく、いつ貴重な史料を汚してしまうかわからないので、だいたいの物はお奈美さんを特訓して、お奈美さんに取り扱いを任せています(そうすると私があの世に旅立つようなことがあっても、後々のことを考えたらたいへん便利ですから)。
ということで、この淡彩の柿本人麻呂像を計測した後、お奈美さんに巻き上げてもらっていたんです。すると掛け軸のちょうど真ん中ぐらいに何か書いてあるじゃないですか。はて、なんだろうと思ってみますと、なんとなんと「筆者風早宰相実種卿 画拾遺吉里」と書いてあったのです。思いこみってコワイですねえ〜。箱に柳沢吉里画賛と整理用シールが貼ってあったもので、ころっとだまされました。
いえ、人のせいにしてはいけませんねえ。ちゃんとすべて自分で見なかった面独斎めが悪うございました.....。しかし、それにしても、書くならふつう外題書く位置に書けよと愚痴りたくなります。無学の私が知らないだけで、どこにでも書くものなのかもしれませんが.....。いやあ、それにしても新発見です。淡彩画については武家と公家の合作だったということですね。都の公家との交遊も深かった吉里ならではかもしれませんね。
長くなりますが、ちなみに風早実種は風早家の祖といわれている人で茶道・香道を良くした文化人としてしられています。風早家には吉里の娘が嫁いでいますので、柳沢家とは縁戚関係にある家なんですね。
最後に、描かれた時期についてふれておきましょう。これらの絵の署判のかたちをみると、着色のものには「甲斐拾遺源朝臣吉里謹画」という署名と落款、淡彩のものは落款のみ、墨絵のものは 「甲斐侍従吉里謹画」という署名と落款がなされています。このことからするとこれら三幅は、甲斐侍従(拾遺は「侍従」の唐名)と吉里が名乗っていた宝永6年(1709)の家督相続から享保9年(1724)の大和郡山への国替えまでの十数年あまりの間に描かれた作品であることがわかります。ちょうど吉里が「積玉和歌集」などをまとめるなど、まさに歌人として一番脂が乗っていた時期のものです。
ちなみに柿本人麻呂は生涯で三百数十首の歌を詠んだと紹介しましたが、吉里はその生涯で二万首あまりの和歌を詠んだといわれています。数多く詠めば良いというわけではありませんが、吉里の和歌はたびたび霊元上皇などから加点を賜るなどすぐれたものが少なくありません。そのことからいうと、吉里は江戸時代の人麻呂、人麻呂の再来にたとえられてもよいぐらいのものではないでしょうか。
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冒頭でも申しましたように、なんとかこれで先行きが危ぶまれた「館蔵珍品名品あれこれ」も10回という一区切りをつけることができました。ほっとしております。本館のような資料館・博物館は館蔵品をいたずらに秘蔵するのではなく、あらゆる機会を通して公開していくのが責務であると考えております。
また、展覧会の展示というのは市民の方にはなかなかわかりにくいものであるのが現状です。少しでもかみくだいたわかりやすいものにすべく努力はしておりますが、限界もあります。そこで、こうしたコーナーでよりわかりやすくかみくだいた言葉で紹介することによって、館蔵史料についてより深く理解していただけましたらとの思いもあります。いろいろご批判もあるかもしれませんが、このコーナーを大切に、たとえ担当者が替わるようなことがあったとしても、この先も回を重ねて館蔵史料のすべてを紹介していきたいと思います。とりあえずは20回をめざしてがんばっていきます!
最後は、何か面独斎らしからぬ終わり方になってしまいましたが、次回も早い目に更新できることを祈ってここで終わりにさせていただきたいと思います
(本館学芸員 西村幸信 20051112)