
みなさん、こんにちわはじめまして。本館学芸員の西村幸信(^-^)と申します。この4月に柳沢文庫にやってきました。やってきた早々思わぬアクシデントでしばらく入院していたこともあってこのコーナーの開始が遅れましたが、これから気長に収蔵資料を整理していくなかで出会った珍品名品を少しずつ紹介していきたいと思います。柳沢文庫ともども末永くよろしくお願いします。

第1回目は「六義園絵巻」(大和郡山市指定文化財)です。この絵巻は上・中・下の3巻ひと揃いになって箱に納められています。文庫の古い記録を調べると、早くに柳沢家から流出したあと、奈良の地域史研究者、そしてコレクターとして有名な水木要太郎氏の手を経て本館に入ってきた物であることがわかりました。いろいろと偶然が重なって本館に収められた貴重な史料なのです。〈1〉 六義園とは?
長い歳月いろいろなところを転々としてきたこともあってか、痛みもあり保存のため近年非公開の取り扱いで、みなさんの目にとまることもありませんでした。今回、03秋季特別展の準備のために調査をおこなうこととなりました。かなりの傷みを予想していたのですが、上巻からおそるおそる開くと予想外にあざやかな色彩で描かれた庭園風景が目に飛び込んできました。
六義館(「六義園絵図」)
この絵巻は、その名が示しているように「六義園」〈りくぎえん〉という庭園を描いたものです。みなさん六義園と言われてもすぐにはわからないというのが実際のところではないでしょうか? では、柳沢吉保と言えば徳川第5代将軍綱吉に仕えた側用人としてテレビの時代劇などでよくとりあげられる人物ですし、ご存じの方も多いのではないでしょうか? 六義園は、その吉保が、元禄8年(1695)加賀藩下屋敷であった駒込(現在の文京区)の45,862坪(約151,300平方メートル、なんと東京ドーム全体が3.2個余りもすっぽりと入る広さです)を与えられ、7年の歳月をかけて元禄15年(1702)に完成させた庭園なのです。現在、国の特別名勝となり一般に公開されていますので、もしかしたら行かれた方もおられるのではないでしょうか。
しかし、現在わたくしたちがみることのできる六義園は、吉保が造りあげた庭園の全景ではありません。吉保時代にあった園内の名所も早くにその姿が失われているものも少なくありません。かつての六義園の風景はどのようなものだったのでしょうか。吉保時代の公用日記である「楽只堂年録」〈らくしどうねんろく〉に「今日駒込の別墅〈べっしょ〉に八十八箇所の名所のある庭園と館を造った。庭園の名前を六義園、館の名前を六義館として、射場を観徳場とし、馬場は千里場とし、毘沙門山を久護山と名付けた」とあります。ここから六義園は、吉保が隠居後の晩年を過ごした居館「六義館」を中心に次にあげる八十八箇所の名所が築かれた庭園であったことがわかります。〈六義園八十八境〉ここで言う八十八箇所の名所(「八十八境〈景〉」)は紀伊和歌の浦を基本に『萬葉集』や『古今集』などの歌集にちなんだ名勝の風景を園内に写し取ったもので、すぐれた歌人であった吉保の文芸趣味があますところなく発揮されたもので、いわば六義園は歌道の理想郷とも言えるものだったのです。
遊芸門・見山石・詞源石・心泉・心橋・玉藻磯・風雅松・心種松・古風松・詞林松・掛名松・夕日岡・出汐湊・妹山・背山・玉笹・常盤・堅盤・鶺鴒石・詞花石・浮宝石・臥龍石・裾野梅・紀川・詠和歌石・片男波・仙禽橋・芦辺・名古山・新玉松・兼言道・藐姑射山・事問松・過勝峯・藤浪橋・宿月湾・渡月橋・和歌松原・老ヶ峯・千年坂・紀川上・朝陽岩・水分石・枕流洞・拾玉渚・紀路遠山・白鳥関・下折峯・尋芳径・吟花亭・峯花園・衣手岡・雲掛峯・指南岡・千鳥橋・時雨岡・覧古石・妹松・背松・亀浮橋・霞入江・吹上浜・吹上松・吹上小野・吹上峯・木枯峯・霞渟坂・雲香梅・桜波石・浪花石・白鴎橋・藻塩水道・藤代峠・擲筆松・能見石・布引松・不知汐路・座禅石・萬世岡・水香江・花垣山・篠下道・芙蓉橋・山陰橋・<えん>渓流・蛛道・藤里(下線は六義園に現存する名所)
「六義園絵巻」にはこの八十八景の世界があますところなく描き出されています。
〈2〉 その作者たち
その作者はそれぞれ〈上巻〉法眼養朴、〈中巻〉周信、〈下巻〉岑信と奥に記名があります。彼らは、次にあげるように幕府の絵師狩野派の人々で、周信と岑信は兄弟で、ともに養朴こと常信の子供たちです。
上
巻
奥
書法眼養朴 狩野常信(寛永13年生〜正徳3年没)のこと。木挽町狩野尚信の長男で、通称右近と称し、号は養朴、古川叟、寒雲子、青白斎などを名乗っています。宝永元年に法眼、同六年に法印を許されています。
中
巻
奥
書周信 狩野周信(万治3年生〜享保13年没)のこと。狩野常信の長男で、浜町狩野の岑信の兄、母は探幽実弟安信の娘です。正徳3年(1713)父の跡を継ぎ、享保4年法眼を許されています。
下
巻
奥
書岑信 狩野岑信のこと。狩野常信の次男で、浜町狩野派を継承しています。
柳沢家と狩野派のつながりは深く、吉保の子吉里をはじめとして歴代当主が狩野派に師事したことが知られています。また、柳沢家ゆかりの寺院などの襖絵なども狩野派の絵師たちに描かせています。
絵巻物作成の契機やその理由などを直接明らかにしてくれる史料は今のところみられませんが、吉保は完成した六義園のようすを絵図に描かせて和歌を通じて親交のあった霊元上皇に献上し、「六義園八景・十二景」の選定を得たりしていますので、そうしたなかで当時円熟期を迎えていた狩野常信親子に六義園の名所を描かせ絵巻物としたのではないでしょうか。
また箱書によりますと「八十八境〈景〉」の名は「中山宰相」の筆によるとあります。六義園絵巻の成立年代が確定できませんので、断定はできませんが三人の絵師の没年と考え合わせると藤原北家花山院流の公卿である中山兼親かあるいはその父篤親のいずれかではないかと考えられます。吉保は和歌を通じて霊元上皇をはじめ京都とのつながりも深く、そうした縁で完成した六義園絵巻に八十八箇所の名所の名前を書き入れてもらったものと考えることができるでしょう。
絵師、また「八十八境〈景〉」名の筆者をみても吉保の一流の文化人としての交流の広さをよくうかがうことができます。
〈3〉 絵巻物に描かれた「八十八境〈景〉」
ここでは「六義園絵巻」に描かれた「八十八境〈景〉」のいくつかを紹介しておきましょう。
A. 初入岡〈はつしほのおか〉
上巻は、「六義園記」にも六義園の入り口としてあげられている遊芸門の風景からはじまります。遊芸門をくぐって、六義館にいたる手前に描かれているのが「初入岡」です。霊元上皇勅撰の「六義園十二景」にもあげられた名勝です。
はつしお」(初汐)とは太陰暦八月十五日の大潮、葉月潮のことで、和歌などで秋の季語として用いられる言葉ですので、「初入岡」とは秋のようすを写した岡という意味と考えることができます。伏見宮邦永親王はこの岡の情景を「染そはん色ぞまたるゝをく露にまた初入の岡のもみぢ葉」と詠んでいます。絵巻をみてもこの岡には紅葉が植えられており、見事に紅葉したさまがみてとれます。この岡は吉保が秋の情景を楽しむために築いたものなのでしょうか。現在の六義園には残っていませんが、本館所蔵の「六義園絵図」には六義館の東側に描かれています。
B. 妹與背山〈いもとせのやま〉
六義園には紀州和歌浦を写した池が庭園の中央に造られていますがその池の中の島にあるのが妹與背山です。絵巻の画面では少しわかりにくいですが少しこぶりの「妹山」と「背山」の二つからなる築山です。そのふもとには、詞花石、浮宝石などの名所があり、現在の六義園でもみることができます。
宮川葉子氏の研究によると吉保の六義園は「玉津嶋、和歌の浦」を手本に造り上げられたものであり、そのうち玉津嶋は和歌浦に浮かぶ小島で、現在は妹背山とよばれており、そうした点から考えて、この六義園の妹與背山もこの和歌浦の玉津嶋〈妹背山〉を写し取ったものと言えるといいます(「柳沢吉保と六義園ー「六義園図巻」と『松蔭日記』ー」〈淑徳大学国際コミュニケーション学部学会機関誌『国際経営・文化研究』第7巻第2号〉2003年)。まさにこの妹與背山は六義園に和歌の趣を醸し出そうという吉保の思想、考え方が色濃く表れたものだと考えられます。
C. 藤代根〈ふじしろのね〉
ここに描かれた藤代根は、六義館から池をはさんで向かい側にそびえる築山の藤代峠のことを指していると考えられます。「六義園絵図」でも、藤代峠のあたりが藤代根と表記されています。現在の六義園にもあるこの築山は高さが実に35メートルあまりで、吉保の妻女である正親町町子の名著「松蔭日記」によるとここに登ると当時ははるかに富士山や筑波山がのぞめたと言いますから、築山としても並はずれた大きさであったことがわかります。
D. 紀川上〈きのかわかみ〉
紀川は和歌浦に流れ込む紀ノ川を写し取ったものですが、紀川上は「六義園絵図」によりますと六義園の南西隅のあたり、ちょうど庭園の池に流れ込む川の上流、現在も六義園に残っている千鳥橋や水分石のあたりに造られた名所です。和歌浦に流れ込む紀ノ川の風景をそのままここでも写し取ったものであり、この画面でも紀ノ川の力強い川のながれがよく表現されています。
E. 藤里〈ふじのさと〉
画面は下巻の一コマで、右手にみえる門をくぐると、「藤里」の名の由来と考えられる藤の花が咲いているのがみえ、その背後には四阿〈あずまや〉らしい建物が見えます。もう少し足を進めると「聴雪庵」と記された二間続きの庵があるのがわかります。静かな山里の情景を再現したものでしょうか。
以上、絵巻物の5つの場面を紹介してきましたが、いずれとも吉保の歌人、そして教養人としての才覚があますところなく発揮されたものと言えるのではないでしょうか? 吉保の子吉里をはじめとして柳沢家からは歌人あるいは画人、茶人としてすぐれた文人大名が輩出され、家臣もまたすぐれた学識をもった人々が少なくありません。こうした柳沢郡山藩の伝統の原点は吉保によって六義園にはぐくまれてきたのではないでしょうか。
今回紹介しました「六義園絵巻」や「六義園絵図」は10月4日(土)よりオープン予定の2003年度秋季特別展「柳沢家の文物にあらわれた四季〈1〉〜六義園とその四季〜」のなかで展示する予定です。あざやかに再現された吉保時代の六義園をぜひこの機会にお見逃しなく(「六義園絵巻」は通常非公開のため、展覧会会期期間中のみの特別公開です)。
| 第1回 | 「六義園絵巻」 | 第2回 | 堯山書「放下放不下」「以弱勝強」 |
| 第3回 | 柳里恭「恨別詩」 | 第4回 | 「荻生徂徠書状」 |
| 第5回 | 霊元上皇下賜硯・霊芝 | 第6回 | 「郡山八景和歌」・「和州郡山八景」 |
| 第7回 | 「郡山町名尽」 | 第8回 | 明治時代の引札 |
| 第9回 | 徳川綱吉書「過則改勿憚」 | 第10回 | 柳沢吉里画「柿本人麻呂像」 |
| 第11回 | スクラップブック | 第12回 | 朱印状・領知目録 |
| 第13回 | 柳沢吉保和歌懐紙二幅 | 第14回 | 柳沢吉里画「武田二十四将図」 |
| 第15回 | 柳沢信鴻画「山水図」 | 第16回 | 柳沢保申書「在知人在安民」 |
| 第17回 | 「柳澤家中旗指物図」・「旗本備立図」 |