松平甲斐守幸橋門内上屋敷表門
(絵図物語)

◊幸橋門内上屋敷表門絵図物語


 大和郡山藩の江戸上屋敷は、幸橋門内(千代田区内幸町)にあった。
 寛政六年(1794)1月10日午後1時半ごろ、麹町五丁目辺りから出火した火事は、西北の烈風にあおられ、 たちまちのうちに大火となって半蔵門前や霞ヶ関一帯に燃え広がった。世に「桜田火事」と称された江戸大火である。 午後3時過ぎごろ、ついには幸橋の藩邸にも火がかかり、敷地8,946坪の内にあった住居向・長屋などをことごとく 全焼、真夜中になって鎮火した。燃え残りは、わずかに土蔵9ヶ所、練塀3ヶ所、土塀1ヶ所というありさまで、時の 藩主松平(柳澤)甲斐守保光は、芝新堀の下屋敷(港区三田一丁目)をしばらくの居屋敷とした。やがて上屋敷は竣工、 同年11月15日には幸橋邸へもどっている。
 この「松平甲斐守幸橋御門内上屋敷表御門・出番所絵図/ロゴ」は、中央から右側に「桜田火事」で類焼ののち再建 された表門および出番所の態様を示しながら、同時に左側では15万石の格式(化政期ごろの)にのっとった大名屋敷の 表門と出番所を示した。この絵図は、類焼後の仮設出番所(千鳥破風造り)を定法どおりの唐破風造りに改めようと、 公儀への伺い用に作成された『表門出番所模様替絵図面』(柳澤文庫蔵)を参考としている。
 のち慶応四年(1868)、新政府は東京府の設置にあたり、郡山藩邸を愛宕下薬師小路(港区西新橋三丁目/ 10,587坪)へ移し、同年8月15日、幸橋門内の旧藩邸に東京府庁舎をおいた。正式な開庁は翌月の2日 (9月8日には明治と改元)のことである。そして、建物の大部分は、旧藩邸のまま庁舎として転用されたため、 表門などは藩邸時代の門柱に真新しい「東京府」の大看板を掲げた格好となっていた。府庁は以後も仮庁舎のまま推移して、 明治27年(1894)8月、鍛冶橋内有楽町二丁目に庁舎を新築のうえ移転されるまでの長い間この地にあった。
 ちなみに、明治17年(1883)測量の東京市街図(『明治図/参謀本部陸軍部測量局』)によると、幕政時代に 郡山藩邸から道路を隔てた北隣にあった薩摩藩邸はすでになく、その跡には新造の鹿鳴館(明治16年開館)が建てられて いるし、それとは対照的に、東京府庁舎は転用前の郡山藩邸の旧態を依然としてとどめているように見える。また、 このころになると東京府庁の奥(旧藩邸西部)には、東京府師範学校・東京府第一中学校の二校が、さらに、幸橋門外には 桜田小学校もおかれていたことが分かる。
 明治政府による欧化政策の一時代の象徴的建造物となった鹿鳴館、また、著しく変化を遂げた近代教育創成期の各学校など、 かつて郡山藩邸のあったここ幸橋門界隈は、明治初期における激動日本の時代の尖端を見ることができる。