サッカーの魅力

やまもと雄大(山本公三)

 サッカーは団体で行うスポーツの中でも連係プレーがうまくいくかどうかで勝敗が大きく左右される点では特別だと言ってもいいかもしれません。得点したとき、最終的にシュートした選手が注目を浴びがちですが、その得点に貢献した選手は一人ではありません。1得点の半分はうまくセンタリングを上げた選手のものかもしれません。よく見ているとそんな事が分かってきます。それほど組織プレーが重要なのに、個人プレーもたいへん重視されています。一見したところ矛盾しているようですが、しっかりした個人技があってこそ、それらが集まったときに凄い力になるのです。ボールが自分のところへパスされたとき、ドリブルして前へ進むのか、前線のフォワードにパスするのか、自らシュートするのかといった多くの選択肢の中から今の状況で一番良いと思うものを一つ選ばなければいけません。しかも、周りの状況は刻一刻と変化していますので、その変化にマッチした対応が必要になってきます。周りの状況を一瞬のうちに判断して行動に移すためには相当の能力が要求されます。ここで個人個人の考え方や発想の違いがプレーとなって現れてくるのです。いくら練習で形をマスターしても、いくら監督から指示が出ていても一旦フィールドに出たら、そこは未知の世界だから何が起こるか分かりません。少々オーバーな言い方だったかもしれませんが、それほど奥の深いスポーツだと言えるでしょう。
 未知の世界へ足を踏み入れたときは経験や知識も大切ですが、そればかりに頼るのも問題がありそうです。キックオフのホイッスルが吹かれれば、これから何が起こるか予測するのは難しく、今までの経験だけでは対応しきれない部分が出てくるからです。そこで重要になるのが自由で柔らかなイメージです。芸術のみならずサッカーにおいてもイマジネーションが最も大事なものだと思います。いつもイメージを広げていれば、ここぞと言うとき、すばらしい発想が生まれ、信じられないような奇跡のゴールが決まるのです。奇跡は神がつくるのではなく、人間の自由な心の翼が大空へ羽撃いたときに生まれるものだと僕は信じています。
 監督は試合が始まると、選手にあまり細かいことは言わず、思ったようにやらせる場合が多いようです。そのほうが伸び伸びとプレーできて、一人一人の個性を活かしたおもしろいサッカーができる筈です。そのかわり、すべてを任された選手は自分の責任で判断し、決断し、行動しなければいけませんので、かなりたいへんです。何せ試合中は考えなくてはいけないことが山ほどあり、時間と空間は同じ所に止まってくれないから頭の回転を速くしないと広いフィールドで輝くことは難しいのではないでしょうか。ボールを自分のものにした瞬間から、その選手が大舞台の主役になります。観客はどんなドラマを見せてくれるのだろうと注目します。期待どおりの演技ができるか否かは個人の力量で決まります。
 個人技が重要だと言いましたが、その中でも状況判断の早さと巧みなボールコントロールが要求されます。それに付け加えてチャンスの匂を嗅ぎ当てられる発達した嗅覚があれば完璧でしょう。もしかすると嗅覚は天性のものかもしれませんね。ボールコントロールはトラップという技術が重要になります。トラップとは動いているボールを体の手以外の部分を使って扱いやすい位置に止めて、自分の支配下におく動作のことです。トラッピングとも言いまして、これがなかなか難しいのです。外国の選手を見ていると実にトラップがうまいので感心します。日本の選手はまだ少しうまくない人も見掛けます。パスの正確さもワールドクラスの選手にはまだ追い付けないところがあるとは思いますが、日本の選手も世界のトップと肩を並べる日が来る時期は近いでしょう。Jリーグでも外国人選手の華麗なプレーに刺激されて日本人選手の技術も全体的にレベルアップしています。お互いに刺激しあって向上して行くことはとても良いことです。
 動物は常に体を動かすことによって環境の変化に対応しているといいます。例えば虫は寒くなると土の中に潜る習性を持っています。もし急激な環境の変化が起こったとき、じっとしていたら動き出すまでに時間がかかってしまいます。寝ているときに地震が来たら反応が遅くなるように、いつも動いていなければ環境が急変したときに対応できず、生命活動を持続させることができなくなる恐れがあります。動いていればいざというときでも準備ができていますので、次の動作へスムーズに移れます。
 サッカーも次々と変化する周りの状況に対応できるように走りながら考えているのです。イレブンの一人一人が今何をするべきか、一瞬のうちに判断し行動しています。動物の基本要素がサッカーというスポーツの中に見られると言ってもいいでしょう。だから人々はあんなに熱中し熱く燃えるのかもしれません。しかし、いくら夢中になってしまうからと言っても熱くなりすぎるのも問題が出てくるものです。
 サッカーでチームや選手を応援する人達のことをサポーターといいますが、最近過激なサポーターが目立つようになりました。試合中に物を投げて選手に怪我を負わせたり、暴言をはいたり、サポーター同士の暴力事件など、見るにたえない情けない場面をよく見掛けるようになりました。イタリアのサッカーリーグ『セリエA』は世界でもトップクラスのリーグとして有名ですが、サポーターの過激度もNo.1という有り難くないことでも有名になっています。最悪の場合、死人まででるありさま。こうなると最早ただの喧嘩にしかすぎません。13人目の選手と呼ばれるほど、選手にとってサポーターは何より強い味方になります。応援する側もフェアープレー精神で気持ち良く応援したいものですね。とかく日本人は何でも外国の真似をしたがる
ようですが、みっともない真似はやめるべきです。何のためのスポーツなのか、もう一度考え直すことも必要かもしれません。日本は外国の悪いところまで真似をするんだから困ったもんだ。楽しくスポーツしたいものです。
 スポーツを楽しくするためにはジャンジャン点が入ったほうが見ていてもおもしろいのではないかと言うことで、ゴール幅を広げようという話も耳にしたことがありますが、果してバスケットボールのように百点代の得点ができるサッカーになれば、よりおもしろくなるのでしょうか? 僕はそうは思いません。バスケットボールとサッカーは内容が本質的に違うものだと思います。ボールを手で扱うより足でコントロールするほうが難しいし、ディフェンスも壁のように立ちはだかりシュートコースを塞げばそんなにたやすく点は取れないものです。1点がすごく重たいからこそ、得点したときの喜びは途轍も無く大きく、その感動は簡単に言い表せないほど心が揺さぶられるのです。1点に泣き1点に笑うという過酷なまでのドラマが展開するからこそ、選手も観客も嘘のない何かを見出すことができるのかもしれません。その何かとは生きている実感とも言えるし、命の存在の再認識だったりするのかもしれません。
 私の妹は大学時代に弓道部に入って毎日夜遅くまで練習していました。弓道部には女子部員が少なく、随分虐げられていたようです。それでも負けるものかと静かな闘志を燃やして、内なるものを見つめながら練習を重ね、ついに大会で優勝しました。弓道は精神力や集中力はもちろんのこと、武道で最も大切な事は礼儀だと思います。 様々なプレッシャーが取巻く中で潰される事なく、しっかり自分を見詰めて優勝できた経験はその後、社会人になったとき、とても役立ったことでしょう。私達の社会はいろいろなストレスを受けやすい仕組みになっています。ストレスが避けられないのなら、潰されないだけの粘り強さが必要です。その粘り強さを身につけるためにスポーツが役立っていると思います。
 サッカーも優れた選手になればなるほどプレッシャーもきつくなります。倒されたりマンツーマンでマークされ、思うように動けません。雁字搦めの中でもボールにたいする執着心を持って諦めない粘っこさこそ名プレーヤーの証だと言えるでしょう。とにかく体をおもいっきり動かすことって楽しいですよね。
 楽しいスポーツも国の威信やイデオロギーを持ち込むと、本来のスポーツ精神からどんどん懸け離れたものになって楽しくなくなります。戦争のかわりに闘争本能を満足させるために考えられたのがスポーツだと言う人もいるようですが、それだけなら、人々はこんなに熱中するでしょうか。多くの人に爽やかな感動を齎すことができるでしょうか。
 私はこう考えます。生きにくい社会になればなるほど生き抜く力を身につけることが重要視され、そのために益々スポーツが大切な役割を果たすようになるでしょう。
 これからもサッカーを愛し、スポーツを通して命を慈しんでいこうと思っています。

一九九七年八月八日