人類の自我および自己認識と言語の発生メカニズムに関して 
      
 ミラー・ニューロンの発見により、人類は他者の行為を自分の行為として脳内でシミュレーションすることや、自分の行為を見つめているもう一人の自分の存在があることが明らかになった。ミラー・ニューロンの存在場所が脳内で言語活動を行っているとされる言語野であるということは、言語活動や認識の問題と関連しそうである、といったアイデアを多くの研究者に抱かせるが、多くはこれらを早計に結びつけることを戒めているのが現状である。ここでの考察は、戒めるのではなくさらに踏み込んだ仮説を展開する。
なぜならこれまで明らかにしてきた内容は、これから提唱する仮説によって総て説明がつくという内容であるので、アニミズムの発生と言語活動との関係をさらに掘り下げ、言語そのものの発生と、言語的思考、自我および自己認識の出発、意識の発生という根源的な疑問に答えを見つける入り口を提供するものであると信じるからである。
ここで、言語についてこれまでに明らかにされている一つの事実を述べると、人類はどの民族も共通して同等の言語能力を持つということである。このことは、人類の言語活動を支える脳内ネットワークシステムが人種や民族に関係なく同じであるということを示している。また、言語が極めて複雑な脳の神経ネットワークから生み出されていることは誰しもが想像することである。
また、言語の使用は人類に限られているわけではない。しかし、人類の言語の特徴として、「無限に文を構成できる」ということがある。これは人類の持つどの言語でも共通に言えることで、英語で可能であるが日本語では不可能ということはない。地球上で語られている人類の言語は総て無限に文を構成できるようになっている。
 アニミズムの発生は死後の世界への恐怖、生命誕生の謎、そういったことの認識が要因であるということをこれまでに論証したが、ここでは、そういった認識の根底にあるものは、「無限」を知覚することから出発すると仮定する。知覚した「無限」への絶望感が根底にあると考えると人類の持つ好奇心や冒険心、攻撃性、残忍性を説明できるからである。また、どうしようもない絶望感は恐怖の感情となるからである。死後の世界、果てしない夜の暗闇、深淵、このような感覚は人類独特の感性である。また、無限の認識と無限の恐怖こそ、自我および自己認識の出発点であり、意識の源ではないだろうか。死後の世界の謎や恐怖、生命誕生の謎、自然界の不可思議、こういったことの認識は無限を知覚して深く絶望し、無限を恐怖することによって、生み出されたと考えると、アニミズムが何故人類だけの行為として存在するのかということも説明可能である。人類は無限を知覚するということとそれに伴う深い絶望に後押しされている、どうすることもできない感覚をなんとかして表現したいのである。これが言語の誕生と言ってもいいし、意識の誕生と言うことも可能である。
 では、人類はどのように無限を知覚するのだろうか。また、無限という言葉を持たない状態で、無限を知覚するのはどのような仕組みからなのか、さらに言えば無限はどこにあるのか、という疑問が次々と浮かんでくるが、以下に、無限をどのように知覚したのかということに関する仮説を述べていく。
 
仮説1
合わせ鏡理論=錯覚の中の無限=
 
 現生人類のミラー・ニューロンは、一部か総てかは別にしても、二つのシステム、あるいは双子のようなニューロンによって対になって存在し、働くようにできていると想像してみると無限に関する答えが簡単に得られる。おそらくネアンデルタール以前の人類も類人猿も、ここで仮定した対になって存在し、働くというミラー・ニューロンは持っていなかっただろう。この対になって活動するミラー・ニューロンは、現生人類だけが持つ脳神経のネットワークシステムである。ミラー・ニューロンAが他者の行為をシミュレーションしているときは、対になっているミラー・ニューロンBがそのシミュレーションを客観的に見ている。またあるときは、ミラー・ニューロンAとBは合わせ鏡の原理で、互いが互いを見るということにより、無限の空間を作り出す。それは錯覚の世界ではあるが、無限の広がり、奥行き、深さ、長さ、大きさなどを知覚させる。そしてそれは果てしない恐怖でもあり深い絶望感でもある。合わせ鏡で見ることができる無限の空間が錯覚の世界であることは、合わせ鏡であるということを知っているからであり、ミラー・ニューロンAとBが作り出す無限の空間は、人類には錯覚ではなく不安と恐怖をかきたてる絶望感として常に存在するのである。現生人類と他の生物の根本的な違いをこのように仮定する。
自我および自己認識、自意識の出発点は、この無限の空間がもたらす不安と恐怖、絶望感に突き動かされる衝動である。このどうしようもない衝動は「自分」だけのものなのか、「他者」も感じているのか、という疑問を生じさせる。この疑問が「自己」と「他者」の発見であり、この感覚、絶望感による不安と恐怖を表現したい、表現しなくてはいられないという切羽詰った感覚から出発したものが言語表現である。
現代の、言語があるのが当たり前の社会では、人類が最初にこのような知覚をするのは、生後二ヶ月くらいの乳幼児のときであろう。この時期に乳幼児はこれまでに見られなかった不安と安心の連続の中にさらされていることを観察できる。乳幼児にはこの不安と恐怖は容易に表現できない。しかし、安心できるのは主に母親に抱かれているときである。そして母親のしゃべる言葉を理解してなんとか絶望感から解放されたいと願うのである。乳幼児や幼児が驚くべきスピードで言語を習得していくのは、不安、恐怖、絶望からの解放という強い後押しがあるからであり、乳幼児がなんの努力もなしに言語を習得すると考えるのは間違いである。言語学では乳幼児や幼児はさして努力もなしに言語を習得するとして、その能力やメカニズムの解明を行っているが、どうやら見当違いの方向を研究しているようである。
無限を知覚することによる不安や恐怖、絶望感は、死や死後の世界、生命誕生の謎、自然界の不可思議と結びついて、アニミズムを発生させたと考えると、アニミズムの発生の理由をうまく説明できる。こういった不安はアニミズム的な祭祀をせざるを得ないような心理状態に人類を追い込んでいくのである。そうして共通の言語を持っている者たちが、社会を構成し、文明文化を発展させていくのである。
 
仮説2
言葉の意味の固定は、不安や恐怖の解消という心理作用である
 
 人類以外の生物は、ミラー・ニューロンAとBが作り出す合わせ鏡による無限空間からの不安や恐怖を持っていないと予想できる。言語は言語表現しなければならいという切羽詰まった感情にかられない限り、言語表現の必要はない。また、言語表現は狩猟の効率化などの副産物があり、言語を使用しない旧人との間に、格差をもたらした。
また現生人類が極めて攻撃性に富んでいることや、冒険心、探求心を持っているのも、合わせ鏡による不安と恐怖に突き動かされるからである。言語の獲得は対になっているミラー・ニューロンの脳を持った時点から急速に始まったと考えられる。今から数万年前の原始のアニミズム社会では、死と再生の儀礼、狩猟、生活に必要な言語は社会で語られていただろう。乳児がミラー・ニューロンAとBにより、無限の空間を知覚し、不安と恐怖、絶望から自己と他者の存在に気付いたときには、獲得すべき言語はすでに社会の中に総て用意されている。多くの場合は母親が語る言語を乳幼児は絶望感の解放を求めて貪欲に習得し吸収していく。
 言語を習得しようとする強い動機は錯覚の中の無限空間の中で生まれる。しかも人類特有の言語によって表現しなければならないこと、無限、広がり、長さ、大きさ、恐怖、絶望などは、錯覚で生まれている無限空間そのものであるが、人類はこれを意識できない。アニミズム社会の祭祀の対象である、先祖、生命、死、再生、精霊、カミなどの概念は無限空間の知覚から生まれたものであるので、人類の言語は、合わせ鏡になっているミラー・ニューロンが作り出す無限を表現しようとするものということができる。
言語表現は、社会の中に既に提示されている統語規則や意味に無条件に従う。これは、言葉というものは、乳幼児の大きな不安や恐怖、絶望の解消という心理作用により、動かせない意味を持って記憶されるからである。手足が自由に動かせない乳幼児が絶望から解放されるのは、母親が使用する言語をいかに早く理解するかということにかかっているので、何の努力もなく言語が習得されるということはない。するべき努力が言語の習得だけであるという時期が人類においては生後まもなくから数年間続くのである。
 
仮説3
言語習得の臨界期は労働と言語習得の期間が設定されているからである
 
 言語習得は、乳幼児の時期から10歳過ぎくらいまでの期間が臨界期であり、臨界期を過ぎると言語習得は極端に困難になる。これは、狩猟という労働を行える年齢までは、保護される環境にあり、この期間は言語習得の期間として進化上の設定期間となったと考えるのが自然だろう。
 ミラー・ニューロンAとBがもたらす合わせ鏡の無限空間が引き起こす、不安と恐怖は、野生動物に育てられるなどで言語習得をしない場合、恐怖の解消は別のもので代替されるので、言語を使用する人類の社会に引き入れることは大変な困難となる。
 
仮説4
カミは錯覚の無限空間に存在する
 
 カミの存在については、存在する、しない、などさまざまに議論されているが、これまでの仮説に従えば、カミは合わせ鏡になっているミラー・ニューロンが作り出す、無限、錯覚の知覚であるということができる。いかに錯覚であるとは言え、知覚し、人類は絶望と不安、恐怖に常に曝されているのであるから、カミを求めるのは必然である。太古のアニミズム社会が生命の謎や自然現象にカミを感じたように、如何に科学が進歩しようともカミの存在は必然的に求められるものである。遺伝子の総てが解読され人体の設計図が明らかになったとしても、カミを必要とする不安定な心理状態がなくなることはない。だからカミは合わせ鏡の無限空間の中に錯覚として存在すると言っていい。
 このことから言えることは、カミが人類に何を求めるのか、また人類はカミのために何をなすべきなのかという宗教的な動機や各宗教の教義は、総て錯覚の中に生まれる絶望、不安、恐怖を解釈した創作であるということになる。
 
仮説5
普遍文法とは絶望感が生み出す衝動のことである
 
 チョムスキーが提唱している普遍文法(UG=ユニバーサル・グラマー)は、人類は共通の言語能力を器官として、内蔵して生まれてくるのであるということである。チョムスキー学派は普遍文法の概念から簡単な文法構造を仮定し、その上に深層構造、表層構造、言語表現という複雑化と生成が行われるとしてきた。近年では深層構造、表層構造という概念を捨て言語の入出力モジュールを仮定し、その基低に普遍文法を置いている。普遍文法そのものについては、実態はまったく明らかになってない。仮説で得られた現象の説明で普遍文法そのものを説明することはできない。普遍文法も仮説であれば、言語表現を説明する理論も仮説の上に成り立っており、仮説を仮説で説明するという堂々巡りを行う結果になる。私はチョムスキー理論の信奉者ではないが、普遍文法とは、合わせ鏡になっているミラー・ニューロンが作り出す、無限空間であり、その無限空間を知覚することによって生まれる絶望感、恐怖、不安であると考えると、これらは人類に共通の感覚、感情であり、乳幼児がどの言語も隔たりなく習得する不思議さも解けると考える。
 また、ソシュール以降、言語は恣意的であるというのは常識的に語られることであるが、何故、恣意的でいいのかということに関しては誰も答えていないように思う。言葉の意味は、前述したように乳幼児期に絶望、恐怖、不安の解消と引き換えに固定されるので、恣意的でいいということなる。
 
ミラー・ニューロンについては、インターネットの検索でいくつかヒットします。一例として、村田哲氏が以下のアドレスで説明しています。
http://www.qualia-manifesto.com/catalogue1.txt
 
    この仮説は脳科学により数年後には正しいか間違いかがはっきりすると思われます。
※   以上の文章は、「まほろば」67号 平成18年4月30日に発表したものです。

     原内信光 & 月村貴子

 一連の文章に対するお問い合わせは、   

戻る