高取町文化財発掘調査「市尾カンデ遺跡」 2018.11.29 new

市尾遺跡第3次発掘調査

平成30年11月27日(火)、現地で記者発表が行われた。

以下記者発表資料(高取町教育委員会作成)より抜粋

●はじめに
  市尾カンデ遺跡は高取町市尾字カンデに所在し、奈良県遺跡地図17A−840に指定された遺物散布地(遺跡)である。市尾遺跡は字カンデや市尾墓山古墳の周囲に位置し、過去2回調査が行われいる。今回3次調査として、民間開発に伴う受託事業として、平成30年7月28日〜11月4日に高取町教育委員会が実施した。調査面積は合わせて約1,000m2である。

●調査の概要
 3次調査は古墳時代の大壁建物跡16棟(一部含む)、掘立柱建物跡8棟(一部含む)、竪穴建物跡2棟を検出した。大壁建物跡は幅約0.5mの壁溝内に直径約0.3〜0.4mの円形の掘形に、直径約0.15〜0.2mを測る柱根を並べて杭状に打ち込み、杭を土などで内側に塗り込んで壁面を構築したと考えられる建物跡である。今回の調査で建物平面全体を検出した大壁建物1は東西の長さ14.5m、南北の長さ13mを測る。建物の東側壁溝が約10m間途切れ、建物の出入り口と考えられる。現在まで検出され全体が判っている大壁建物跡では国内最大級である。また東西方向に並列する壁溝の中央に直径0.6mの柱の掘形に直径0.3〜0.4mを測る柱穴の痕跡を検出したことから、柱穴の痕跡は大壁建物1の棟持ち柱と考えられ、大壁建物に天井部分があった可能性がある。また大壁建物1より以前に建てられた大壁建物は一辺11m〜19mを測る。また最初に建てられた大壁建物4は細長い長方形を呈し、東西7.5m南北22mを測る。大壁建物は遺構の前後関係から少なくとも古墳時代の4時期に存在したと考えられる。
 掘立柱建物跡は8棟検出し、柱の掘形は長方形を呈し一辺1mを超えるものも有る。検討が必要であるが柱間は2〜2.5mあり、復元すると2×3間の建物や2x2間の総柱建物の可能性がある。こちらも検討が必要であるが、遺構の前後関係から古墳時代の3時期に存在したことが考えられる。

●遺物の出土状況
 遺物収集箱(コンテナ)4箱の出土遺物があった。ほとんどが表土内の古墳時代の土師器片で僅かに弥生式土器の壷片、須恵器片、黒色土器片、瓦器片、陶磁器片、石器などがある。時期がわかる資料として有効と考えられる遺物の中に大壁建物1の壁溝内の柱穴と重複した上層の柱穴から出土した土師器破片がある。この土師器片は甕の口縁部や高杯の破片があり、土器の年代は布留2式の時期(4世紀後半〜5世紀前半)と考えられる。

●まとめ
 3次調査の結果から検出した大壁建物や掘立柱建物の時期は、4世紀末〜5世紀初頭と考えられ、今まで清水谷遺跡や観覚寺遺跡の例から高取町への古墳時代の渡来人の移動は5世紀後半以降と考えられていたが、約80年近く遡る可能性が出てきた。応神天皇十四年条(403年)に秦氏の祖、弓月君が、二十年条(409年)に東漢氏の祖、阿知使主とその子都加使主が人民をつれて来朝したと日本書紀の記述にあり、調査の結果はこれを裏付けていることになる。建物に関しては、遺構の残存状況は良好でなく底部が僅かに残っている程度で伴う遺物も少なく建物からの生活感は感じられない。建物跡は非日常的で祭祀や象徴的な特殊な建物の可能性が考えられる。

市尾カンデ遺跡
市尾カンデ遺跡上空写真に加筆
赤のライン:大壁建物跡青のライン:掘立柱建物跡
市尾カンデ遺跡全景
市尾カンデ遺跡全景(東から)

※上記の写真2点は関係機関の了承を得て、高取むげん塾が空撮したものである。

     (注) 現地調査は終了し、現地説明会はありません。


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