////////////////
///「死の解決」///   <平成10年>
////////////////


**********
(序章)
**********
 「死の解決」と言う言葉は、故江部鴨村氏が使用した言葉である。
私事、昨今親や知人が次々に亡くなり、次は我が身という思いと、歳も大台に乗りそろそろ死の準備を始めねば・・・という心境であった。
 
 まずその準備をするにあたり、得体の知れない死と言う物を把握し、心構えを定め、「死の解決」を求めた。「死の解決」が出来れば、あとの生き方もおのずと定まり、有意義な後人生が送れると思われたのである。

************
(老いとは)
************
 まず死ぬ前に必ず来るべき老いの心境を、「蓮如」はこう述べている。

 「それ秋も去り、春も去りて、年月を送ること、昨日も過ぎ、今日も過ぐ、いつのまにかは歳老の積もるらんとも覚えず知らざりき。然るにそのうちには、さりともあるいは花鳥風月のあそびにも交わりつらん。また、喚起苦痛の悲喜にも遭いはんべりつらん。なれども、今にそれとも思い出すこととては一つもなし。ただいたづらに明かし、いたづらに暮らして、老いの白髪となりて果てぬる身のありさまこそ悲しけれ。されども、今日までは無情のはげしき風にもさそわれずして、我が身ありがほのていを、つらつら案ずるに
、ただ夢のごとし、幻のごとし」 

 この言葉には嘘はない、老いをこうも的確に捉えられては何の言葉もない。老いというものがよく分ような気がした。

************
(先人は)
************
 道元の「生死の巻」では、生死に執着するなという。夢想国師はこだわらなければ、何事も思いのままという。無住禅師は「世の中はあるに任せてあられけり、あらんとすればあられざりけり」という。

******************
(心は死ぬのか)
******************
 う〜ん、禅僧達の言葉は、観念としては分かるが、もう一つ自分の物になってこない。
 いったい死ぬということはどういうことなのだろう。死んだらぽっくりとそれで終わりなのであろうか・・・。

 先年母が亡くなり、体は灰になったが、心も燃え尽きてしまったのだろうか。いやいや、私はふと母の仕草や言葉を想い浮かべるではないか、そして時々話しかけると、母は答えるではないか。これが母が残した心だろうか・・・・・・。
 ん、確かに母の心の一部分が私の心で息づいているみたいだ。しかし私が死ねば母の心も死ぬのだろうか・・・。いや、私の心と融合して子供に孫にと残っていくに違いない。

 ということで、「こころ」は何らかの形で残っていくのではないかと思われてきた。

*****************
(死の解決その1)
*****************
 さて、結論を急ごう。では死とはどういうことなのか。これは下記のたとえを当てよう。
 
 「春に芽生えた1本の草は、花をつけ、実を結び、秋に枯れる。しかしこれが生から死になったのではなく、単に種や宿根等に形を替えただけである。生える・枯れるは生死ではなく、形態の変化だけである。枯れるのは翌年に生えるためである。」

 人生と言うものは、「形態の輪廻のなかの一瞬の変化形」ということであろうか。
 人は「生きるために死ぬ」つまり「死ぬために生きる」ことで、「人は老化したり病気になった体を更新することが死ぬことで、心はリセットされないものだ」、ということに私は納得したのである。

************
(解決後)
************
 死の解決をなし終えて、一応の満足感を味わい、以後の人生は充実したものとなるはずであった。
 しかし、翌日も、翌月もなにも変わっていなかった。もちろんなんらの充実感もなく、只の屁理屈に終わっただけであろうか・・・・。

 結局は良寛の「生きてるときは生きて、死ぬときは死ぬがよかろう・・・」がすべてなのであろうか・・・・・・。


//////////////////////
///「死の解決その後」///  <平成12年>
//////////////////////

*************************
(平常心)  正法眼蔵より
*************************
 「生死の中に仏あれば生死なし。またいわく、生死の中に仏なければ生死にまどはず。こころは夾山 定山といわれし二人の禅師のことばなり。得道の人のことばなれば、さだめてむなしくまうけじ。生死をはなれんとおもはむひとまさにこのむねをあきらむべし。
 もし人生死の外に仏をもとむれば、ながえを北にして越にむかひ、おもてを南にして北斗をみんとするがごとし。いよいよ生死の因をあつめて、さらに解脱の道をうしなへり。ただ生死すなわち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし、このときはじめて生死をはなるる分あり。生より死にうつると、こころうるはこれあやまりなり。生はひとときのくらいにして、すでにさきありのちあり、かるがゆえに、仏法の中には生すなわち不生という。滅もひとときのくらいにて、またさきありのちあり。これによって滅すなわち不滅という。
 生というときには生よりほかにものなく、滅といふときは滅のほかにものなし。かるがゆえに生きたらばただこれ生、滅きたらば、これ滅にむかひて、仕ふべしといふことなかれ、ねがふことなかれ。この生死すなわち仏の御いのちなり、これをいとひすてんとすればすなわち仏の御いのちをうしなはんとするなり。
 
 これにとどまりて生死に着すれば、これも仏の御いのちをうしなふなり、仏のありさまをとどむるなり。いとふことなく、したふことなき、このときはじめて仏のこころにいる。ただし心をもてはかることなかれ、ことばをもていふことなかれ。
 ただわが身をも心をもはなちわすれて仏のいへになげいれて仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる。たれの人かこころにとどこほるべき。
 仏となるにいとやすき道あり。もろもろの悪をつくらず、生死に着するこころなく、一切衆生のためあはれみふかくして、かみをうやまひ、しもをあはれみ、よろづをいとふこころなくねがふこころなく、心におもふことなくうれふるとなき、これを仏となづく。またほかにたづぬることなかれ。

*******************
  解釈と思い
*******************
この文段を私なりに解釈してみますと、常人は「死」を真剣に考えると、まずたいていの人は「あきらめ」という境地になります。しかしそれはまだ真剣に考えていないからで、さらに精進すると死というものがどういうものか「明らか」になってきます。さらに三昧の境地になれば「生死を超える」ことができ、さいごには「生死なし」の無我の境地に達するのだと思われます。

 だからどういうことなんだといわれますと、私も困ってしまうのですが、
要は「生ききり 死にきる」ということなのだと思っています。

////////////////////////////
///「死の解決」その後の始末/// 
///  <平成14年> ///
////////////////////////////


 上記を書いてから2年間、「じゃ具体的になにをどうすればよいのか」と言うことを考え続けた。そろそろ結論をださねばなるまい。というのは、「いくら考えてもきりがない」と言うことに、遅まきながら気がついたからである。このままでは考え続けたまま死ぬことになりかねないのである。このことは中村真一郎が「死はそれが到来してから対処すればよい」と言い切っているし、また某人は「死を忘れたふりして生きる」と言っているが、私には「生への未練と死の恐怖」のために何らかの具体的な対抗策がほしいのである。「死を忘れたふりして生きる」だけの度胸がないのである。

 「生の未練」については、できるだけ減らすために、まず「やりたいことをやりたいときにやっておく」ことであろう。定年になったら・・・では遅いのである。死は気まぐれであり、定年まで待ってくれる保証は全く無い。その他「日常生活を営むに要する以外の金、財産を持たない」、「伝えたいことは常々言っておく」、「身の回りの整理をしておく」等によりたとえ数%であろうと未練は軽くなるはずである。
 
 次に「死の恐怖」であるが、あの世というものは全くの未知の世界であり、ひょっとして地獄があるかもわからないし・・・・・・・と思うと確かに怖い。宗教により神仏に助けを求め、「天国に行ける」と安心を得ることも一法である。しかし我々は自覚していないが、死に一番近いと思われる日常体験をしているのである。それは毎日の「睡眠」である。
 ほとんどの人は寝るのが怖いとは思わないだろうし、寝るのが大好きな人も多いのでは無かろうか。睡眠中、時たま怖い夢を見ることがあるが、これは日中起きている間の「平穏な心」でよい夢を見られるようになるのは比較的易いことである。この「平穏な心」づくりのために宗教というものがあるのかも知れない。
 
以上が平成14年現在における、私の「死の解決」である。
加えて最近、亡くなった人の強い力を感じている、今日このごろである。


******************************************
(死んだらどうなるのか) <平成15年1月>
******************************************

(A)「仏教で古来より説かれてきたコ−ス」

 まず死んだら、寒く真っ黒な闇の険しい山道を歩き出す(死出の山)。7日間で3200キロを歩くと秦広王(不動明王)に出会い、「人間社会に行った罪悪」について尋問を受ける(これ以後、7日毎に出会う王に尋問を受けて、未決か確定の審判を受けることになるが、ほとんどの人は確定しないで、苦しく辛い道を歩くことになる。また審判時には、残された家族等の供養次第で、罪が軽くなる。これは7日毎継続されていく)次に川幅400キロの三途の川をわたるが、この渡り口が「賽の河原」で、無実の子供はここで地蔵菩薩に救われる。大人の悪人(ほとんどの人)は毒魚の住んでいる岩だらけの急流を渡らせられる。14日目(ふた7日)にやっと三途の川を渡るや、奪衣婆に裸にされ、初江王(釈迦如来の化身)に送られ「人間社会で行った功徳」について尋問を受ける。次に2日目(み7日)に宗帝王(文殊菩薩の化身)に「人間社会で行った邪淫」について尋問される。これを救ってくれるのは特に子供の供養とのこと。更に28日目(よ7日)には五官王(普賢菩薩の化身)に送られ、秤に掛けられ鬼に責められる。いよいよ35日目(ご七日)には、深い地底の宮殿にいる閻魔王の前に出される。ここで閻魔帳から罪状が読み上げられ、鬼に責められる。42日目(む七日)には変成王(弥勒菩薩の化身)の前で、最終的に罪が確定される。49日(ひち七日)には泰山王(薬師如来の化身)により次の生まれ変わりの先の道が決められる。亡者として49日までは次々に罪状等の審査があり、最長49日目にして審判が下る。来世に行くコ−スは、まず3界(無色界・色界・欲界)があり、その欲界には六道(天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄)がある。百箇日は平等王(観音菩薩)、1年目は都市王(勢至菩薩)、三年目には五道輪転王(阿弥陀如来)に審判される。そして仏教はこの審判時に、在世の者の祈り・法要が通じると教えている。
またここでは省略するが、世界の多くの宗教でも死後の世界は存在するとして、布教を広めてきた。宗教以前にも、来世の考えは古く古代エジプトからあった。で本当のところはどうなのか

(B)「私の心の中で」

1.「生き物は必ず死ぬのか」

 古代より、全ての生物は生まれたときから死に向かっており、必ず死ぬと言われてきたがこれは本当なのか。実は、死なない生物も多いのである。例えばウィルスや細菌は条件さえ合えば、未来永劫に繁殖を続けて寿命なんぞ無いのだ。毎年枯れて、また一から花を咲かせる多年草みたいなものもある。だから人間の心もその心によっては、永遠なものかも知れない。

2.「死んだ後どうなるか」

 有史以来、何百兆もの人の死があり、死んでから生き返った人もそれなりに存在しており、その方々の記憶の報告から、「死後何か有るらしい」と言うのは信用してもいいと思う。また言い換えれば、死後の世界は想像できないから「無い」のではなく、想像できないから「ある」とも言える。死んだ後どうなるかは「輪廻」と言う言葉で考える。もっともここでは、仏教学的輪廻ではなく、偶然と必然が組み込まれた「繰り返し」の意味でとらえるほうがよい。これに基づき人間の生死も「繰り返される」ことになる。

3.「魂(霊)の存在について」

 死後の世界が有れば当然魂(霊)は存在するはずだ。この世ではちょっぴりの間、人の肉体を借りていただけで、魂自体は実は永遠なのかもしれない。そこでもし永遠なれば、悪い魂はずっと悪いままかと言えばそうではなく、「魂の浄化」ができる時も有るはずである。それは多分、人間として生まれた現世という時間だけかもわからない。だから現世の生き方が大切であると言えなくもない。(大分宗教的方便に近くなってきましたか・・)

4.「地獄の存在について」

 経験者からの話の中にはどうも地獄的なものは出てこない。地獄というものは、宗教者の布教に当たっての方便だと思われてしまう。死後の世界はそれほど苦しいこともなく、それほど楽しいこともなく、淡々としたものであろうと思われる。その淡々とした中で永遠に魂を練り上げていくことになるのではなかろうか。

5.死後の楽しみについて

 死後のなんと言っても楽しみは、先に逝った親や懇意な知人の魂に会え、語り会える事であろう。また肉体的苦痛からも解放される。だから苦痛を受けている病人が早く逝きたいという気持ちも解る。が、自殺による死はどうなのか。「人間の生と死」は、運命の偶然と必然の所産によるものであり、自分自身で勝手に判断し、生死を決めるものではない。私的には、自殺したらあの世にいる親に、会わせる顔がないと思っている。自殺については今後更に思考を深めていきたい。

6.今後の生き方について

 「もう一つの世界」が有ると言うことで今の生活の幅が広がり、気が安らぐ。「もう1つの世界」と言うのは死の世界だけではなく、草花に「綺麗に咲いてくれ」と話しかけたりするのも、「もう一つの世界」とも言えるであろう。明るい来世感を持てば現実社会の悩みが相対的に浅くなり、現実社会もより朗らかに生きれる。死んだら何もなくなると考えるのが、人間を不幸にしているのではなかろうか。

7.人は何のために生きるのか

 これはここ数十年来考えていた私のテ−マであった。思考の経緯は省略するが、私のたどりついた現在の心境を述べておこう。

「ひとはひとのために生きる」


//////////////////////////////////
///「死の解決その後の後始末の続」///
////////<平成15年6月>//////////
//////////////////////////////////


 著名宗教家を中心とした、いにしえよりの考え方を一応紹介し、自分なりに解釈してきたが、合理的科学性をベースとした東西の近代人の思索にふれてみたところ、私なりにいろいろと気づきが有ったので紹介したい。

○岸本英夫(宗教学者)氏は、「死は実態として有るわけではなく、実態が有るのは現実の生命だけである。このため1日をいかによりよく生きるかにかかってくる。小さな別れの集大成が死であるから、普段から別れの稽古をしておく事が大切だ。」と述べて、以下の3点についての対処を講ずる事が薦められている。
1.死に至るまでの肉体の苦痛
2.自分が消滅する死の恐怖
3.家族の今後の生活

○アルフォンス・デ−ケン(カトリック系宗教学)氏は、死への準備教育として「自覚を持って自分と他者の死に備えての心構えを拾得する事」(よりよく生きるための教育)をめざして以下の4点を上げ、死後の生命の可能性について積極的に考察するように促している。
1.専門諸学の死の知識を拾得
2.自分の価値観の再評価
3.死に対する自分の感情の再訓練
4.死にゆく人との接触による具体的技術の習得
 彼は具体的な対処法として、特に「別れは小さな死」と見なして、小さな死(退職、離別、失恋、病気等)の対処法が大きな死に役立つとしている。

○奇しくも東西の宗教学者が「別れ」という意味を、死への精神的トレ−ニングとして捉え、その積み重ねの課程の重要性を強調している。ここに至っては私も同感で、「人間の円熟は失う事によってのみ達成される」という言葉が重みを持ってくる。

 この観点から、若くして自ら死を選ぶことは、まだ死への多くの課程を踏んでおらず、準備不足による消化不良性死と言えなくもないだろう。いろいろな別れ、苦しみ、楽しみ、病等を十分体験する事により、死への不安がかなり消えていくものらしい。

○一方で脇本平也(宗教学者)氏は、この世の生死観を4つに分類している。
1.肉体的生命の存続を求めようとする(ミイラ、復活)
2.死後における生命の永存を信ずるもの(来世信仰)
3.自己の生命を、それに変わる限りなき生命に託するもの
  (民族として残す子孫等)
4.現実の世界の中に永遠の生命を感得するもの
  (日常生活上での永遠性を見いだすこと)

 この中で特に4番目の「永遠性の感得」に注目すると、3の「視界からくる永遠性」に対して、4は「自身の心に感得するもの」と言うことである。氏は具体的には、芸術家の作品の中に見る永続性や宗教家の宗教儀式にそれを見ているようだが、これに関しては、もう少し深めねばならない。

○また立花隆氏により、「臨死体験」をまとめたものがある。これによると多くの体験者の話はけっこう似通っていて、「死と同時に魂が体外脱離して空中遊泳しながらしばらく漂っている。それから暗いトンネルを抜けた後、明るい一面の花畑に出ると、身内や知人の死者との出会いがあり、そこで自身の人生の回顧しているうちに、誰かに呼ばれて、目を開けると蘇みがえっている」という話である。この臨死体験の効果としては、体験者の多くは、死の恐怖脱却、生の感謝・充実、普遍的宗教への関心、霊魂の存在の認識等に感化されるようである。この臨死体験を死後の世界に当てはめる事の妥当性は今後の課題である。

○金子大榮
  「死ぬことがなければ、生きるという意味もない」

○宮澤イチ(宮澤賢治の母)
  「ひとというものは、ひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」の言葉を見つけて、私、うれしくなりここで区切りとする。


////////////////////////
///「死の解決と宗教」/////
/// <平成15年12月>///
////////////////////////

 死を明らかにするには、生死への関わりが深いとされている「宗教」というものの本質を考えることが必要であろう。しかしこれがなかなか難しい。例えば仏教に限定して考えてみますと、釈迦は死後のことには一切触れていないにも関わらず、死後の世界に重きを置いている仏教宗派は多く、そこでは死後の世界が事細かく説かれています。

 私は、仏教は「現世をより充実して生きるための手助けをしてくれるもの」として捉えています。具体的に言いますと、仏教の基本的な教えとされる「七仏通戒の偈」によれば、「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」つまり「悪をなさず、善を行い、心を浄める、これが仏教の教え」ということになりますが、私も本当にそのように想っています。

 以上より死後の世界は、宗教とは別の物として私は捉えています。宗教が生きている世界と死後の世界を同格化したところに一種の混乱があるのではと思っています。 死後の世界を来世というなら、来世は宗教を越えていると思っています。
 
 では宗教の関与しない死後の世界は本当に有るのか、有るとしたらそれはどのようなものなのか。人は死んでも魂が残ることはいままでに述べてきました(身体を燃やしても、埋めても元素と量は全く減らないことから、実は身体も残るのであるが・・・)。
 死後に魂が行く場所はどんなところかと考えますと、多くの臨死体験者の報告からは、天国や地獄といった区別もなく、たいへん明るく、いたって浄らかな雰囲気で、病気死者も事故死者も老衰者も自殺者も悪人も善人も全ての人の魂が、上下無く、雲のように浮遊し、行きたい場所に瞬時に異動して寄り添っているらしい。

 これが臨終体験でないのは、事実物足らないが、そう信ずることにそれほど違和感は現在持っていない。

 さてこの世界はあまりにも清浄であるが故に、汚れた魂は黒っぽく、孤独に漂って居るらしい。このため現世においては出来るだけ魂を浄化しておく事が大切であると思われます(すこし飛躍があるが・・・・)。そこで現世に生きている我々の魂の浄化には、仏教が大変役に立つのではないかと考えています。

 最近近親者の死に直面して、身体死は必要だと思いました。病気の苦痛が何百年も続くのはかなわないし、衰弱して動けぬまま数百年もじっとしているのもいやであります。適当なときにリセットしたいものですね(私は消滅とは思わない)。

 色々な知恵として、生死に関して気になった言葉を紹介しますと

・曾野綾子 「最後は静かに消えるのがよい、いやなことがあると、「ああ、おかげで死にやすくなる」という気がする

・嵐山光三郎 「死は人間にとって最後の楽しみである」 「長生きする人は美味しいものを最後まで取っておくだけであり、若くして自殺する人は待ちきれずに早く食べてしまった人である」 「生死は単なるトランプの裏表にすぎない」

・堀田力 「人間は死んだら二度死なない」

・阿部謹也 「海が最後の居場所となる」「身体は海に戻りまた芽生える」

・田辺聖子 「人生は神さんからの借り物」 「ほとんどの人は神さんに返すときに汚したり傷つけたりしてすり減らしているが、中には前よりも美しく厚く立派になって返すひともいるが、こういう人には神さんはもう一度貸したくなってしまう」

・澤地久枝 「生の有り様を抜きにしての死の論議は意味がない」

・大橋巨泉 「老いは起承転結の転であり、死は結である」「人は転じて終わるべきである、それでよい結となる」

・日高敏隆 「死も生物学的プログラムの一環である」

・バリ島民 「死は個体の再生の始まり」

・鴨長明 「知らず、生まれ、死ぬる、人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る」

・小池真理子 「意識が無に帰することはない」「平凡な日々を丹念に暮らす」

・石井好子 「亡くなった人に守られて私は生きている」

・夏坂健  「死は快適な睡眠の一つであった、それは永眠といえる」

***結局は、人の数だけの生死があるということかも知れない。***

 しかしこの魂にも、また寿命があると最近思う、というのは魂というのは一部分「生者の心の中の思い」からも構成されており、その思いが無くなれば寿命がつきたと言うことになるであろう。
 そして寿命のつきた魂は、自然と無くなっていくのであろう。