Location : Home > Sociosphere > Peace Reserach
Title : An essay on Peace
Site:Felix Logo

平和に関する試論

《0》 ゲルニカ/あるいは戦争状態論

 その街はスペイン北部にある古い街であった。軍事的に特に重要というわけでもなかった。数年前から始まっていたスペイン市民戦争も、この街の住民には遠い別世界のことのようであった。

 −この街だけは酷い目にあうわけはない。
 数キロ先の街は攻撃されたらしいが、この街は大丈夫だろう。−

 誰もがそう思っていた。
 その日も住民はいつもと同じように過ごしていた。突然、空に黒い点が現れた。黒い点は数を増し、空全体を覆っていった。人々はおびえ逃げまどった。彼らに対して容赦ない爆弾の雨が降り注がれた。数百人の住民が一瞬にして死んだ。平和で美しかったこの街は、瓦礫と死体に満ちた廃虚となってしまった。

 1937年4月26日、ゲルニカ。

 フランコ側についたドイツ空軍がこの街を襲ったのである。後の第2次世界大戦中にヨーロッパや日本の都市が受けた爆撃に比べれば惨禍の規模は小さかったが、前線でもない都市への無差別爆撃は当時としては空前の出来事であった。この祖国の一都市の悲報を耳にし、抗議の意味で描かれたのが「ゲルニカ」である。

 無差別爆撃を行ったドイツ空軍、否、戦争そのものを引き起こした勢力の責任を棚上げにしてゲルニカの住民を責めることは、問題の所在を隠蔽するものである。しかしゲルニカの住民は戦争中であるにも関わらず自分たちの街が戦場になるかも知れないということを住民が忘れていたのではないだろうか?

 この問題は私たちに対して深刻な問いを投げかける。

 私たちは「平和」な世の中で暮らしている。しかしそれはそう思っているだけなのではないか?
 例えば第2次世界大戦以後(すなわち1945年8月15日以降)戦争に突入していない国は、ブータン・シンガポール・リベリア・フィンランド・ノルウェー・スウェーデン・デンマーク・スイス・アイルランド・日本のみである。 これが「戦後」の現実である。

 「平和を守れ」と人々は口にする。

 しかしその「守る」べき平和は、いったいどこにあるのだろうか?

 日本においては戦争に関する議論を行うだけで危険視される風潮がある。まるで戦争を語る人間がいるから戦争が起こるのだと言わんばかりに。「戦争はいやだ」「戦争よなくなれ」と叫ぶだけで戦争がなくなるのならば声が枯れるまで叫ぶことを厭わないであろう。しかし現実の世界はそうではない。
 国際社会には紛争がある。そしてその紛争は解決されねばならない。戦争は国際紛争を武力的に解決する最終手段である。したがって戦争よりも実効的な紛争解決手段を考案しない限り、決して戦争がなくなることはないのである。
 日本は戦争を放棄したつもりでいる。しかしながら日本が地球上にある限り、決して「戦争は日本を放棄しない」ということを忘れてはならない。

《1》 国際政治学における議論

1 国際政治学理論の概説

1.1 勢力均衡論

 米ソを軸とした2つの対立する国家群という構図(ヤルタ体制)は80年代末になってゴルバチョフが<新思考外交>を掲げ資本主義社会との共存を展開するまで続いた。第2次世界大戦後多くの国家が独立したが、そうしてできた新独立国をいかに味方の陣営に取り込み覇権を握る競争が行われた。いわゆる「パックス・アメリカーナ」と「パックス・ソビエチカ(パックス・ロシアーナ)」である。ユーゴスラビアのチトー大統領による非同盟主義など、これに対抗する動きもあったが、大勢は米ソ2大国の主導による国際運営の時代であった。
 この期間には国家群の勢力を同等なレベルに保っておくことで安全を保障しようというのが基本的な姿勢となっていた。この現実を肯定する形で提唱されたのが「勢力均衡論」である。

1.2 従属論・世界システム論

 1.1で述べた通り、第2次世界大戦後多くの国家が独立を果たした。しかし東西対立の中で米ソ両陣営の草刈場となった国家は経済的にも政治的にも大国にその行動規範を左右されることとなった。特に合衆国は多大な援助を傘下の国々に投下したが、結局1次産品しか生産できない(正確に言えば生産させない)ため、開発途上国の交易条件は悪化する一方であった。このために<北>が<南>を搾取する構造ができあがってしまった。
 この状況を批判する形で提唱されたのが「従属論」である。
 資本集約的で自律的発展が可能である<中心>が、労働集約的で自律的発展が困難な<周辺>を搾取する構造が存在する。このため<中心>はより豊かに、<周辺>はより貧しくなってしまう。したがってこの構造を転換しないことには<周辺>の発展は決してありえない、というのが従属論者の主張である。
 この議論はウォーラーステイン等によって理論的に整備・体系化された。彼らの提唱した理論は従属論よりも史的かつグローバルな観点を持っており、世界システム論と呼ばれている。システム内のゼロサム的な(一国が<周辺>から<中心>に上がれば代わりに他の一国が引きずりおろされる形の)移動が可能であるとしたのが特徴である。

2 批判の試み

2.1 破滅への螺旋階段

 勢力均衡論は対立を肯定する思想である。複数の陣営の対立を前提としてその状態の維持を目的としている ためである。そして同時に共倒れの思想でもある。勢力の均衡を国家の基本戦略とする国家群は必ず破滅するからである。

 例えば2つの勢力が勢力均衡論に従って行動しているものとする。このとき、これらの陣営に属する国家は勢力増大に全てをかけざるを得なくなる。それは以下のような理由による。一方が軍備を拡大すれば他方も拡大する。かと言って双方の合意のもとで縮小することは勢力差の縮小につながるため容易には進まない。つまるところ螺旋階段を昇っていくように、どこまでも勢力拡大を繰り返していかざるを得なくなるのだ。さらにそのような再現のない拡大を続けることが何をもたらすかは、合衆国と旧ソ連各国の現状より明らかであろう。

 さらに勢力均衡論の背景にある思想は人間の最も醜い部分を正当化する。
 まず不信感を助長する。世界を的と味方に分けることを前提としており、絶えず相手を疑いの目で見ざるを得ない状況を作り出してしまうためである。また勢力の維持を最大の目的とすることは、既存の立場や権力を守るためにその他の一切を手段化するという人間の最も愚かな行為を強制することでもある。このゆえに世界がこの立場を採ることを許してはならないのである。

2.2 歴史は繰り返すか

 1では触れなかったが、近年の勢力均衡論の流れの1つに動態化が挙げられる。勢力均衡の変化という観点から歴史を見直す動きである。
 覇権追求国とそれを阻止しようとする連合勢力との抗争の時代と、いくつかの列強の相対峠する時代が互いに繰り返される、という議論である。

 覇権国の存在が国際的な安定をもたらすか否かによって立場が分かれ、前者を<政治・軍事覇権論>といい、後者<ダイナミックな勢力均衡論>という。
 しかしこの背景にある「歴史は繰り返す」という発想は二重の意味で人間を侮辱している。1つには現状に対する分析の中断・思考停止をもたらすことである。そしてもう1つは人間の自由意思を否定している点である。人間が人間である所以は自らの行動を自らで決めるという点にあると言える。
 「歴史は繰り返す」と考えるということは、実際に存在している人間とは独立の「歴史の法則」に従って歴史が展開していくということを認めることである。人間の営みが予定調和的に定まっているという発想は、人間を主体性のない人形とみなすことに等しい。

3 相互依存の世界

 特に先進諸国の間では経済的結びつきが強くなり、GNPの伸びや物価の安定といった主要な経済的目標を達成するにあたっては他国の政策を無視することができないような状況になってきている。流行の言葉で言えばボーダーレス(borderless)やインターリンクト(inter-linked)ということになるであろう。このような一蓮托生の状況を踏まえ、R.コヘインとJ.ナイがそれまでの議論を集大成して『力と相互依存』を著した。彼らは「相互依存」を次のように定義している。

世界政治における相互依存とは、国家かあるいは異なる国家に属する行為者における、相互に与えるインパクトによって特徴づけられる状況を指す。このようなインパクトは国境を超えたカネやモノ・ヒト・情報の交流という国際的なトランスアクションによってしばしば引き起こされる。

 この定義のもと、彼らは複合的相互依存(Complex interdependence)という概念を提示した。その特徴を挙げると、

  1. 国家は政府・国境を超えた官僚・民間同士の多様なチャンネルで結ばれている。
  2. 国家間の課題は多くの問題群からなり、これさえ解決すれば他の問題は全て解決するといった階層性はない。
  3. 軍事力の行使がない。

といったものである。

 合衆国がこの理論を踏まえたか否かは判然としないが、1993年9月1日、国防長官の名前で「戦力編成の全般的見直し」を公表した。この「全般的見直し」では、冷戦時代のソ連の恐怖が去り、これに代わって「地域の強国による大規模侵略」の時代に入り新たな危機が現れたと分析している。
これらの新たな危機は次のように整理される。

○核兵器およびその他の大量破壊兵器による危機

 これには核・生物・化学の各兵器の拡散に関連した危機、さらに旧ソ連邦内に存在するこれらの兵器の備蓄が含まれる。

○地域的な危機

 これは主として米国の利益に反することが利益になる地域の強国による大規模侵略から発生する危機、さらには民族上あるいは宗教的な憎悪、国家に支援されたテロリズム、友好国政府の転覆によって生ずる危機である。

○民主主義と自由への危機

 この危機は旧ソ連邦、東欧をはじめ至る所に存在する。

○経済的な危機

 この危機は、もし我々が経済を強力にし、競争力に富ませ、かつ拡大させることに失敗すれば、米国の国家安全保障上に危機をもたらせかねない。これらは軍事専門家の間ではLIC(Low-Intensity Conflict)と呼ばれている。

 

 そして今後は各地域毎の強国に対して対応していく体制を敷く方針を明らかにした。
 すなわち冷戦時には基本的にはソ連を見張っていれば安全保障がされたのだが、近年は要注意の地域・要因が分散化し、かつそれらが相互に関連しあってきていることを合衆国政府がそれに対応することを公式に認めたわけである。21世紀中庸あたりまではこのような状況が続くと考えられる。

《2》 平和とは何か

 平和に関する議論は様々あるが、次の3つに大別できよう。

  1. 存在するのは「戦争」と「戦争状態」であって、平和な状態など有り得ない。
  2. 戦争と平和とは互いに対立する概念であって一方の不在が他方の状態である。
  3. 平和とは戦争を超克した文明の段階である。

 1)の立場は本稿冒頭に挙げた戦争状態論である。これについてはルソーが『戦争に関する断片草稿』の中で次のように語っている。

“絶えることなく続く敵対関係によって互いが不安に喘いでいるとき、それこそがまさに戦争である。これに対し、敵対者どうしが戦線布告しつつも平穏なままでどちらも敵に対して攻撃行為をなさない場合、それによって両者の関係は全く変化しないわけだが、この関係は現実的効果を及ぼさない限り単に戦争状態と呼ばれる。”

と。つまり一見平和に見えていても暴力の契機が内在している状態があり、それは「平和」ではなく「戦争状態」であると主張している。「戦争状態」とは敵対関係の部分的な継続であり、戦争の日常化・潜在化なのである。
 この平和時における戦争状態についてカントも『永遠平和のために』において

“将来の戦争の種を密かに保留して締結された平和条約は決して平和条約とみなされてはならない。なぜならその場合にはそれは単なる休戦であり、敵対行為の延期であって平和ではない。”

と述べている。

 次に2)について説明しよう。この立場がおそらく一般的によく耳にする議論であろう。すなわち「平和」を騒動・紛争・緊張関係の不在という形で語る姿勢である。確かにそれらは無いにこしたことはないが、困ったことが何もおこらないことが平和であるならば、その究極的な形は死ということになり、人間にとっては意味がない。
 しかしながら平和とは何かと問われて返答に窮するのも事実である。単に戦争がないことが平和ではないと思いつつもその状況を言葉で表しきれないままでいる。その意味では平和とは否定の産物であろう。しかし否定し尽くしてもなお存在するもの、言わば否定を超克して得られる状態としての平和を考るのが3)の立場であると言えよう。
 ユートピアは「どこにも存在しない」ということで逆に「どこにでも存在する」という可能性を持つ。それと同様に「平和」が否定的な表現を以てしか表現しきれないのは、それがいかなる社会においても実現化の腕あることの裏返しであるのではないだろうか。これは単なる二重否定による肯定ではなく、否定を突き抜けた肯定である。

 この1)2)3)の立場の違いとは何か?
 表面的には言葉(定義)の問題であるかのように見える。しかし根本的にはその背後にある人間観・世界観の問題ではないだろうか。
 1)は人間を互いに争う存在であり、世界はその舞台であると見ている。平和は「人類の巨大な墓地の上」にしか築けないということになりかねない。
 2)は人間の不作為によって平和が訪れるという立場であり、人間を消極的・退嬰的なものにしてしまう危険がある。
 これらに対し平和を人間の<努力の体系>と見ようというのが3)の立場である。ある意味では極めて楽観的だと言えるかもしれない。しかし“楽観主義は意思に由来する”のであり、“平和とは当事者の自由意思によって確認された法秩序のことである” と言える。

 平和とは<意思の体系>とも言えそうである。より多くの人たちがより幸福になるような世界を創造しようと努力し続ける思想潮流およびその具現化運動を平和と呼ぶべきではないだろうか。つまり平和とはある定常状態ではなく、運動論と運動の「収束点」の双方に与えられた名前であると理解すべきだ、ということである。

 魯迅は『故郷』の中で次のように語っている。

“思うに希望とは、もともとあるものとも言えぬし、ないものとも言えない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。”

 文中の「希望」を「平和」と読み換えることができる。平和を望み、かつその実現のために行動する人が増えていくその状況そのものが平和であると考えられる。

《3》平和の創造

 今までの歴史は戦いの歴史であった。その一方で戦いを回避しようとする運動もなされてきた。しかし現状を見てもわかるとおり、必ずしも効果を現しているとは言い難い。それは人間への視座を欠いた一面的なものだったからではないかと考えられる。
 本稿では平和を「戦争を超克した文明の存在形態」と規定した。個々で言う「存在形態」とは「心の持ちよう」にすり替えられる程度のものではなく、人間の一切の所作の総体を指している。具体的な機構や制度というよりは人間の行動原理を指していると理解していただきたい。これは本稿においては重要なことがらであるので、本稿全体のまとめとして平和創造のための人間の行動原理に触れておきたい。

 物理学にニュートンの第一法則と呼ばれている法則がある。「物体の運動は外部から作用を受けない限りその速度を変えない。」というものである。この性質を慣性という。恒常性・変化硬直性と言い換えてもよいかもしれないが、このような性質が歴史にも存在する。
 ある場所・ある時刻の状況は突然決まるものではなく、それ以前の歴史とその場に直面した人によって規定される。そしてその状況は変化させようとしない限り変化することはない。それはちょうど川の生成に似ている。

 最初はただ斜面があるのみである。そこに最初の一滴が流れ出す。それは偶然かもしれないし、その地形の特徴かもしれないが、ある1つの筋を選択して流れていく。しかしその次の一滴は前に流れた後を追って流れていく。これを繰り返していくたびに流れはやがて深くなり、固定化していく。そして大きな流れを形成する。

 一旦できあがってしまった流れを変えようとすると非常に大きなエネルギーを必要とする。そのような状況が人間社会でも成り立つ。この歴史の変化に対する硬直性を<歴史の慣性>と呼ぶことにしよう。<歴史の慣性>は人間の意識に深く染み込んでいるために、ほとんど絶対のものと受け取ってしまいがちである。困難に直面した際に「そうなっているのだから」とそのまま是認してしまうことが多いのはこのことを示している。そしてこの意識は人間の行動を規定してしまう。

 歴史の舞台においては、より巨大な構想力とより緻密な実行力と、そしてそれを持続するための強い決意を持ったものが勝利する。良い意味でも悪い意味でも、<歴史の慣性>に対抗した者が歴史に名をとどめることができる。
 予言についても同様のことが言える。予言が的中するのは、その予言が宇宙の法則を言い当てている場合か、もしくは予言の的中を信じた者たちが予言を実現すべく行動するときである。

 そもそも確定した未来などない。歴史とは1つには人類の一切の行動の記憶の総体であり、1つにはその結果として導き出された状況のことである。特に後者の意味で「歴史」を用いるとき、「歴史は変革することが可能である」と言える。そしてその可能性が人間に内在していると信じて行動していくこと、すなわち<歴史の慣性>からの脱却を目指す行動原理を<希望の原理>と呼ぶことを提案する。

 具体的には次のようなものになると考えられる。

○各行動主体の「自我」の構築

 民主主義が最良の効果を発揮するのは、各構成員が主体的な智慧を持つときである。これが達成されない間は多数決は単なる数の論理に終始する。国家にせよ組織にせよ、意思決定の基準を持たないままでいると最終的には自らを困難な状況に追い込むことになる。
 狭い国益に固執するのではなく、人類全体の利益を視野にいれると同時に民衆の生活を保障するように行動することが今後の政府には要求される。

○相互依存型の世界秩序の形成

 「自我」の構築のみでは「我」を張り合う世界になってしまう。しかし相互依存だけでは、より「声の大きい」主体に引きずられてしまう恐れがある。したがって、確固たる自我を持った行動主体同士が相互に協力しあう大勢が必要である。もちろん現状はこの状況にはほど遠いものであり、まずこの段階に至るために、地球上の各地域が自律的発展するための援助システムの構築が望まれる。

○<希望の原理>の具体的提示

 根本的に重要なのは、現在の状況を変革することが可能なのだ信じる人を増加させることである。すなわち<希望の原理>を多くの人に共感できる形で提示することである。
 人間には完全な自由もなく、完全な安楽もない。しかし完全な絶望もありえない。眼前の状況がどんなに悲惨で全く解決の糸口さえ見えないように思える時でさえも、いつかその状況から脱却することができると受けとめること、そこから全てが始まる。
 人間が真に戦うべき相手は、意識の奥底に潜む<歴史の慣性>であると言うことができよう。

まとめ

 本稿では平和という非常に大きなテーマに取り組んだわけだが、それはそれぞれの人間が平和への責任感を持つことに集約されると思われる。責任感のあるところには智慧が湧き、強い責任感は行動を伴うものであるからだ。
 そしてもう1つ重要なのは行動を起こす勇気である。<歴史の慣性>にとらわれた自分を開放し、一歩前に進むための勇気である。
 すなわち平和とは責任感と勇気を持った人たちが創る世界のありさまを指すのではないだろうか。

Site:Felix Logo
Updated : 1999/04/05