歴史が薫る。ロマンが息づく−−高取町




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訪れどころ

・高取城跡

高取山(589.9m)山頂に築かれた典型的な山城。南北朝以来、越智・本多・植村各氏の居城。越智氏の時代(1583まで)はカキ上げ城で、本城は貝吹山城であった。その後郡山城主となった豊臣秀長の命を受け、天正13年(1585)に本多氏が入城。近世的城郭として整備がはじまった。本多氏が絶えた後、譜代大名の植村家政が寛永17年(1640)に入城。以来、植村氏は高取藩主として幕末(1868)まで続いた。高取城は、城内と郭内に分けられる。城内は約10,000・、周囲約3km。郭内は約60,000・、周囲約30kmという広大なもので山城としては日本一であろう。(国史跡)


・猿石

高取城二の門外、城下町に下る大手筋と岡口門の分岐点にあり、制作は飛鳥時代の斎明朝(7世紀)と推定されている。実はこの猿石高取城築城の際、石垣に転用するのに明日香から運ばれたという。


・五百羅漢

壷阪寺の東約500mにあり、山腹の岩肌に密集してほられた石仏群。「親に会いたくば、五百羅漢の堂にこもれ」というたとえがあり、今も信仰者が絶えない。隣接して両界曼茶羅、十一面尊、五社明神などがあり、総称して香高山石仏といい1596〜1614年に本多因幡守が、高取城築城の頃、石工等に作らせたものとされている。


・宗泉寺

高取藩主植村氏の菩堤寺。もと植村家政の邸宅だったが、のちに「ゴテンアト」(下子島に)下屋敷を新築し、元禄11年(1698)寺として創建。山号を真各山宗泉寺という。
植村氏累代の墓碑がある。


・武家屋敷(長屋門)

もと高取藩の家老屋敷で、長屋門は県重要文化財。江戸末期文政9年(1826)のもの。旧藩主下屋敷のあった「ゴアテント」は、長屋門正面の丘の上にあり、近くに数件の武家屋敷など江戸時代の建物がある。


・札之辻跡

土佐町から壺阪道への分岐点、すなわち「下町の三ッ辻」を「札之辻」と呼ぶ。ここに高札が建てられ道行く人に政治の在り方を示した所、ここに釘抜門があって町屋と家中屋敷の区分となっていた。幕末になると、札之辻角に仮学問所があった。


・子嶋寺

天平宝字4年(760)報恩法師が建立したと伝え、町内では壷阪寺に次ぐ古刹で、いっときは二十一坊の伽藍を誇ったとも伝えられる。子嶋曼茶羅の名で有名な「紺綾地金銀泥絵両界曼茶羅図」2幅は平安前期のもので国宝。また山門は、高取城二の門を移築したもので、現存する唯一の高取城遺構となっている。


・鳥ヶ峰古戦場

文久3年(1863)中山忠光を主班とする尊王攘夷派の急進・天誅組が、大和五条の代官所を襲撃した後、高野街道を進軍し、高取藩は鳥ヶ峰に大砲をすえるなどして応戦。地の利、武力の相違により天誅組は敗退した。鳥ヶ峰は高取藩の調練(練兵)場であった。


・越智居城跡

大和中世史は越智党と筒井党の抗争史といわれるほど越智氏は名豪族であり、南朝に与して戦い南北朝合一後も北朝方としばしば戦っている。越智岡丘陵の南の谷間に「オヤシキ」の地名が残り越智氏の居館跡である。
・壷阪寺(南法華寺)
西国六番の札所で、創建は文武天皇大宝3年(703)法相大徳弁基上人の開基で、京都の清水寺の北法華寺に対し南法華寺といい、長谷寺とともに古くから観音霊場として栄えた名刹である。36堂60余坊の大伽藍も、4回の火災で焼失し、現在の建物は文政10年(1827)に建立されたものである。三重の塔は本堂と共に、国の重要文化財。本尊は千手観音、「日本感霊録」のなかにこの壺阪観音の信仰によって開眼されたという説話があり、これをもとに浄瑠璃「壺阪霊験記」が創作され、一躍有名になった。昭和58年に開眼した大観音立像は高さ20m、重さ1,200・もあり天竺渡来である。


・壷阪寺(南法華寺)

西国六番の札所で、創建は文武天皇大宝3年(703)法相大徳弁基上人の開基で、京都の清水寺の北法華寺に対し南法華寺といい、長谷寺とともに古くから観音霊場として栄えた名刹である。36堂60余坊の大伽藍も、4回の火災で焼失し、現在の建物は文政10年(1827)に建立されたものである。三重の塔は本堂と共に、国の重要文化財。本尊は千手観音、「日本感霊録」のなかにこの壺阪観音の信仰によって開眼されたという説話があり、これをもとに浄瑠璃「壺阪霊験記」が創作され、一躍有名になった。昭和58年に開眼した大観音立像は高さ20m、重さ1,200・もあり天竺渡来である。
大観音石像お里・沢市の像
冬の壷阪寺秋の壷阪寺


見どころ


・貝吹山城跡

貝吹山(210.3m)頂上に所在。もともと越智本城を守る「矢倉代」で、本城の北方に点在する小山・坊城・鳥屋・池尻・奥田などの家城と呼応し、本城や、高取・曽羽の城に貝を吹き危急を報ずる任務を持っていた。


・光雲寺

南北朝時代初期(1346年)越智邦澄が自家の菩堤寺として建立、興雲寺と称したのが始めである。その後一世紀をへて、室町初期(1446)復興開基、以後越智氏の菩堤寺として栄えたが、越智氏の没落後、わずかに余命をたもち天和年に再興、光雲寺となる。山門前に古木「厄除けの杉」樹齢千年に近い神木である。(本堂は県重要文化財)


・鉾立清九郎の墓

「和州清九郎」といい谷田村に生まれる。丹生谷村にて成長、のち鉾立村(現大淀町)に居住。孝徳心ことの他深く今の世まで賞賛され、碑石は居住村の丹生谷鉾立峰にある。因光寺(丹生谷)の清九郎会館には、清九郎に関する文献や資料が数多く保存されている。


・束明神古墳

真弓岡丘陵の東南部、佐田の春日神社境内にあり、昭和59年発掘調査が行われ、直径60mの範囲で造成し中央部に墳丘をつくった大規模な終末期古墳。凝灰石の切石を積み上げた精巧な横口式石槨であることが判明、他に類例がない。7世紀後半から末頃のものと推定され、草壁皇子(天武・持統両天皇の皇子)の墓である可能性を秘めている。


・乾城古墳

貝吹山の南麓にある直径30mの円墳。6世紀後半に築造された横穴式石室をもつ(県史跡)。


・鑵子塚古墳

乾城古墳北西200メートルにある円墳。直径24m、高さ7m。6世紀後半に築造されたらしい(県史跡)。


・市尾墓山古墳

全長66IR0DYの前方後円墳で「市尾官司塚」とも呼ばれる。周濠、外堤の跡もあり、玄室内には長さ2.7メートルの県下最大の刳抜式家形石棺が納められていた(国史跡)。南に開口する横穴式石室をもつが、北にも小規模な羨道設備があり他にあまり例がない。古墳の規模や石棺・遺物の点から、古代豪族の巨勢氏の有力者が被葬者であろう。


・宮塚古墳

市尾の天満神社の境内、社殿のすぐ北側にある全長45mの前方後円墳。後円部に横穴式石室が開口し、凝灰石の刳抜式家形石棺がある(国史跡)。


・観光案内所(夢創舘・旧山崎邸)

城下町のたたずまいが残る旧街筋に古い町屋を改修した「土佐町なみ集会所」(愛称「夢創舘」)が出現した。元の呉服商であったこの建物は、商いをしていたであろ店の間が格好のギャラリースペースとして目に飛び込み、観光客のみなさんに高取の歴史や四季に触れていただくことができる。遠くからおいでいただくみなさまを町の「らしさ」でお迎えすることがひとつのねらいなのである。裏の庭から表通りにかけて、畳や襖をすり抜ける風は、旅人だけでなく、きっと町のみなさんにもくつろぎをもたらすことだろう。小規模な集会から、サークル・学習活動、そして町づくりの拠点として、みなさんの明るい声がこだまする、そんな空間が夢創舘である。
(お問い合わせはTEL0744-52-1150)

 
     


INFOMATION


高取町観光協会(高取町役場内)

奈良県高市郡高取町大字観覚寺990-1
高取町まちづくり課内 (0744)52-3334

●電車 近鉄壺阪山駅    (0744)52-2049     近鉄市尾駅     (0744)52-3125 ●バス 奈良交通橿原営業所 (0744)22-6731


作成:油谷印刷所
このホームページの内容は高取町観光協会のパンフレットを元に作成されたものです。