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 円山応挙・長沢芦雪の作風の違いは、会場をご覧いただけばすぐにおわかりいただけるはず。その人生も全く異なったものです。

 ここでは2人のプロフィールについて、簡単にご紹介します。

▲円山応挙 「紅梅鶴図」(三井記念美術館蔵)<前期展示>

【円山応挙】
 円山応挙(1733〜1795)は、江戸時代の半ばに、対象物を自然のままに写し取る「写生画」を創造し、当時の日本画に革新をもたらしました。丹波国桑田郡(現代の京都府亀岡市)で農家の次男として生まれた応挙は、15歳でびいどろ玩具を商う店に奉公に入り、眼鏡絵(西洋由来の玩具であるのぞき眼鏡に使う、遠近法を用いた絵)を描いているうちに主人に絵の才能を認められ、狩野派の絵師に師事する機会を得ました。


▲円山応挙「大瀑布図」
(相國寺蔵) <後期展示>

 写実性・立体感という斬新な要素を持ち、伝統的な装飾性も重視した応挙の絵画は京都 の町人や宮家からたちまち圧倒的な支持を得て、彼を祖とする「円山四条派」は、 狩野派や琳派と並んで日本絵画を代表する中心的な存在に育っていきます。応挙は、当時は非常に珍しく、目にすることができなかった虎を描くため、長崎の出島を通じて輸入された虎のなめし皮を入手して参考にしたといわれ、人物を描くために西洋の解剖学から中国の相学まで学びました。  応挙は多くの龍を描き、代表作に数えられています。その姿は鹿の角やらくだの頭、蛇の首、牛の耳の写生を合体して描いていましたが、想像上の生物である龍のいきいきとした迫力と龍を包む異界の波乱に満ちた気の描写は、単なる写実を超え、「物象を写して精神を伝える」という応挙の絵画表現への情熱を伝えています。 日本伝統の繊細な感性と技法に西洋の合理性を取り入れ、品格高い作品を描き、日本画に新たな美の規範を打ち立てた応挙は、京都画壇はもとより近代日本画の祖と呼んでも過言ではないでしょう。



【長沢芦雪】
  長沢芦雪(1754〜1799)は、京都・篠山の下級武士の子として生まれたといわれますが、出自は明らかではありません。応挙の弟子は1000人近い数だったといわれ(「仙斎円山先生伝」)、応挙が創った写生画法を忠実にたどる弟子がそのほとんどを占める中で、長沢芦雪だけは異彩を放っていました。大胆な構図と才気あふれる奔放な画風、師ゆずりの卓越した描写技術を誇る芦雪は「奇想の画家」の一人として近年、にわかに脚光を浴びています。彼の人生も作風と同じく、破天荒な逸話に彩られています。中には史実としての真偽を疑われている話もありますが、芦雪には伝説を生む何かがあったのでしょう。

▲長沢芦雪「牛図」(鐵齋堂)<前期展示>

 応挙に弟子入りした芦雪は、師の画法を身につけるため師の作品の写しに励みました。しかしある時、師の描いた手本をそのまま応挙に見せたところ、応挙は手直しを入れました。そこで次に芦雪が清書して持っていくと、応挙は褒めたといいます。芦雪はこれを仲間たちに得意気に語り、応挙に破門されました。多芸多才、酒豪、いたずら好きの芦雪は、応挙から3度も破門されたという話も残っています。

 しかし応挙は、1786年、和歌山県無量寺の落成にあたり、仲のよい住職に記念の作品を届けるため、兄弟子を飛び越える大抜擢で芦雪を遣わしました。芦雪は、師や窮屈な京の町から開放され、南紀の地で才能を縦横無尽に発揮し、串本市に約270点の作品を残しました。

 芦雪は46歳で謎の死を遂げており、一説には毒殺されたといわれています。豊かな才能に恵まれ、自由に生き、結局は生涯かわいがられた芦雪には、周囲の嫉妬と反感が集中していたのかもしれません。

 これまでほとんど展覧会に出品されることのなかった作品も数点出品されます。本展は、人柄そのままに闊達な芦雪の作品群を楽しめるまたとない機会となるでしょう。


(C)The Yomiuri Shimbun Osaka,2006